MOBA・幸語歳時記「芝浜」

今年も暑い暑いといっていたら、あっという間に季節が進んで、気がつけば早や師走。クリスマスセールや歳末大売り出しで買い物に走るのもいいでしょうが、大掃除も終えてホッと一息つくのに、師走寄席などいかがでしょう。べつに師走寄席という季語があるわけではありませんが、正月を迎える前に、寄席に出かけてしっとりと『人情話」を味わうのも乙なものではございませんか。人情話は笑いをとる滑稽話とは違い、話術で聞かせてほのぼのとした気分にさせる噺、中でも「芝浜」は師走の寄席で名人級の落語家が、大トリで演じる演題とされています。どんな名人でも、寄る年波や病には勝てません。『芝浜」が上手く演じられなくなったら引退を決意と言われる人情話の代表格ですが、酒に溺れて過ちをしそうになった魚屋の金さんが、お上さんの機転で立ち直り、夫婦でしみじみ語り合うのが大晦日の晩の設定で、ここが聞かせどころ、この時期にはピッタリと言うわけです。 魚屋といっても、金さんクラスでは店を持てるわけではありません。天秤棒の両端に吊した桶に入れた魚を肩に担いで売り歩く棒手振り(ぼてふり)で、今のように冷蔵庫などない時代ですから、早朝に仕入れた魚は午前中早々に売り切ってしまわなければなりません。 当時、江戸の魚市場(魚河岸、かし)と言えば、日本橋が一番、日に千両のお金が動くと言われたものですが、店を持たない棒手振りでは、直接仕入れに行くわけにはいきません。そこで、庶民的な小魚や雑魚の競りが開かれるのが「芝浜」。金さんクラスの魚屋が、早朝専ら通うのはこちらのほうでした。酒好きで朝が苦手の金さんをたたき起こすのはおかみさんの役目ですが、年の瀬のある朝、おかみさんが、、間違えて早く起こし過ぎたことから、この噺は始まります。毎朝きまった時刻に起こすのは、今ならカンタンに思えますが、江戸時代はそうはいきません。目覚まし時計はもちろんのこと普通の時計だって庶民の家にはありません。その上、時の数え方が今と違って、夜が明けて日が昇るのが明け六つ、日が沈むのが暮れ六つで、その間を六等分して1刻(とき)2刻と数えるのですから、同じ1刻でも、昼と夜とでは季節によって長さがまるで違います。よくまあ当時の人はこんなややこしいことをしたものだと思えます。話を戻すと、浜へ出て見るとまだ誰もいません。おっかあ間違えやがったな、とぼやいても仕方ありませんから、浜辺をぶらぶらしていると、汚れた財布が落ちているのに気づきます。開けて見ると中身はなんと五十両。金高は演じ手によって違います。この金勘定が「時間」同様ややこしい。今の金額に換算するのも、買える米の量を基準にしても、今どきのこめ騒動でもわかる通り時々で相場が変動しますからアテになりません。この話に入ると説明だけでキリがつきませんから、ここはエイヤっと1両が10万円相当としておきましょう。それにしても、金さんにとってはたいへんな額。儲けものだと喜んだ金さん、仲間を集めてドンチャン騒ぎして酔い潰れて寝てしまいます。当時はネコババは厳罰、金額が金額だけに首がとびかねません。そこで、おかみさん一計を案じ、酔い覚めた覚めた金さんに、あれはきっと夢だと納得させる。猛省した金さん、酒をぷっつり断って仕事に精を出したので、貸店舗を持てるほどに。三年後の大晦日、おかみさんが手をついて、財布を拾ったのは夢ではなく、ホントのことだったと今までずっと欺し続けたのを謝り、ぶつなり蹴るなり好きなことをするよう懇願する。それを聞いた金さん、一時かっとするが、ハッと気づき、俺が今あるのはおめえのお陰だと、逆に感謝するという人情噺。笑いをとるのでなく、夫婦のやりとりをしっとり聞かせる、話術がものをいうの時季的にもピッタリというわけで、師走の寄席の大トリの定番になっているのです。正月支度も一段落ついたら、こんな歳末の過ごし方も試してはいかがでしょう。

では、良い新年を。本年はこれにて。

   

MOBA・幸語歳時記「敬老の日」

九月の「敬老の日」は、もともとは盆に行われた行事「生身魂(いきみたま)」というのが起源のようです。盆は故人の霊を供養する催しですが、生きている目上の人に対しても礼を尽くそうということで盆または盆の前に、両親が揃っている場合は刺鯖や飛魚を贈ったり、婚家先の娘が実家の親と会食したり贈答をするといった習わしでした。もちろん祖父母の長寿を祝うのはとうぜんですが、昔、人生五十年といわれた当時は、子供が成人した頃の両親は、結構な歳に見られたのです。「いきみたま」は生身魂のほか生見玉、生御霊、生身魂などと表記されますが、いずれにしても生きていながら霊魂の意。いくら目上を敬うとはいえ霊魂扱いするとはあんまりだ、という気がしますが、昔、といっても戦後1960年代頃までは「村のはずれの船頭さんはことし60のおじいさん」と童謡で相当の年寄りのように歌われ、小説の中にも「55歳の老婆」なんて表現が出てきても、だれも文句をつけなかったのですから今とは感覚がまるで違います。もっと遡れば、家の中でも杖を使うことが許されるという意味の「家に杖つく」という古い中国の表現は「50歳」のことでしたし、俳聖と言われる松尾芭蕉の命日の陰暦十月十に日を、「芭蕉忌」「時雨忌」のほか、ひろく「翁忌」『翁の忌」と呼び、芭蕉翁と尊称されますが、享年はなんと五十一歳だったのです。◆◆現在のの「敬老の日」は元は「老人の日」だった9月15日を、1966年に名称を変え国民の祝日にしたものですが、2003年から9月の第3月曜日(ハッピーマンデー)として連休となるようにしたものです。◆◆近頃の「敬老会」は、だいたい町会や自治会ごとに集まって老人を敬い祝う催しをするのが一般的ですが、敬う側より敬われる老人の数のほうが圧倒的に多く、敬老はそっちのけでまあ老人同士のカラオケ大会といったところが大勢でしょうか。もちろんカラオケを楽しむのも心身には良いことですから結構なことですが、それだけ元気な老人なのですから、さらに前向きに老人パワーを生かす方法を考えてはどうでしょうか。いささか我田引水になりますが、「モアベターエイジングとは何か」を考える日とするのも、初秋の一日にふさわしいように思われます。

MOBA・幸語歳時記「終戦の日」

8月15日の「終戦の日」を幸語歳時記に入れるとは、とお叱りを受けるかと思います。あれほど多くの犠牲者を出した戦争が終結したこの日は鎮魂の日のほうが相応しいでしょう。それと、せめて1年でも早く終わらせていたら、原爆投下も、東京大空襲にはじまる全国の主要都市への空爆も、硫黄島の戦いも、沖縄戦も、すべて回避できたのですから、悔やんでもくやみきれない日と言えましょう。でも、それは後知恵というもので、今起きているウクライナやガザその他の戦争にしても、始めるのは簡単だが、終結させるのがいかに困難かをまざまざと見せつけています。誰だって敗北宣言などしたくないに決まっています。形勢不利とわかっていても、なんとか一矢報いて局面が打開できないか、人は希望的観測に走りがちなものです。1年前に戦争を止めようなんて言ったとしたら、軍部ばかりでなく国民の間からも大反発の声があがり、日本中収集がつかず、内乱だっておきかねません。戦後は軍の方針にしたがったまでと口を拭った大新聞社(当時影響力のあったマスコミといえば新聞でした)にしても「大勝利!」「千人斬り」などと今でいうフェイクニュースを競って流すことによって民衆の受けを狙い、部数拡大に突っ走っていたのですから頼りになりません。結局、一番イヤな役回りを天皇陛下(昭和天皇)に押しつけることでようやく終結することが出来たというのが真相でしょう。誰もドロをかぶりたくないと言ってずるずる先送りしていたら、ソ連の侵攻、日本分割といったさらなるヒドい状態になりかねないところでした。◆◆昭和20年(1945年)8月15日は、疎開先で迎えました。まだ小学校入学前の子供でしたが、それでも微かに記憶が残っています。外はカンカン照りの暑い日でした。やや薄暗い部屋で何人かの大人や年長者たちが正座してラジオを囲み何人かが涙を流していました。私も訳の分からないまま何か悲しくなって、目を拭っていました。蝉の声だけが、ひときわ辺りに満ち満ちていました。◆◆膨大な数の戦死者、戦没者の犠牲の上に築かれた日本の平和ですが、世界では戦争、紛争が絶えません。「人類の歴史」は「戦争の歴史」と言われるほど戦争で埋め尽くされています。宗教も争いの原因にこそなれ戦争を止めさせたことはありません。そう考えると、人間は絶えず戦争を起こす「宿命」を背負ってこの世に存在しているのかと、絶望してしまいそうです。でも、それほど先のない我々には見ることができなくても、我々の死後ずっと先の時代には、いつかきっと戦争のない世界が現出するであろうと信じたいものです。(写真 終戦直後の銀座四丁目交差点付近 産経新聞)

MOBA・幸語歳時記「海の日、山の日」

祝日の話が続きますが、七月の「海の日」と対のように八月には「山の日」があります。どちらも比較的新しく制定された祝日ですが、夏真っ盛りに相応しいのと、もともと七、八月は祝日がなかったので、二つまとめてサービスしたのかと思っていたところ、この二つにはずいぶん違ったところがあるのをご存知ですか? まず制定された時期も海の日が1995年、山の日は2016年と、ばらばらです。海の日はもともと7月20日が祝日ではないけれど「海の記念日」とされていたことから、当初いったんは7月20日とされたのですが、学校の夏休みの終業式と重なることもあって、それならと、7月第3月曜日とし、連休になるように取り計らった(日曜と連休になる月曜祝日をハッピーマンデーというのだそうです)という経緯があります。そこで海の日は年ごとに日が「移動する祝日」になったというわけです。これに対して山の日は8月11日と「固定された祝日」のはずでした。ところが制定後ほどなくして東京オリンピックの開会式と重なりさらにそれが新型コロナの影響で1年延期になるとかで、急遽2020年と2021年の2回、特例法により日にちを変更しました。そのせいで、山の日も年によって変わるかのように錯覚され、ややこしくなりました。だいたい、8月11日にきめたのも、お盆休みに合わせて休暇が取りやすいからといった理由のようですし、制定のきっかけも「海の日があって山の日がないのはおかしい」という作曲家の船村徹さんの一言できまったとか、海の日とくらべてなんだかムリして作った祝日の感がなくもありません。それはさておき、海の日の元になった「海の記念日」のほうは、いささか個人的な思いがあります。7月20日が古くから海の記念日とされたのは、明治天皇が「明治丸」という機帆船で、北海道までご巡幸に出発された日だということですが、この明治丸を子供のころ、毎日眺めて暮らしていたからです。というのも、この船が係留されていた東京商船大学(現東京海洋大学)のある越中島の対岸に生家があったので、否応なしに毎日目にしていたからです。あまり詳しい由来などは知りませんでしたが、いつも手入れがされているらしい真っ白で優美な船体と西洋風の船着き場の建物が、なんとなく子供心にもロマンをかきたてられたものでした。今は、陸地の上で重要文化財として保管され見学もできるようですが、海の日になると、ふと子供の頃に毎日眺めた光景が浮かんでくるのです。(写真 明治丸 東京の観光サイト)

MOBA・幸語歳時記「嘉祥の祝い」

また休日の話になりますが、六月は土日のほか祝日の休みのない特異月です。十二月は平成から令和になって天皇誕生日が二月に引越したため国民の休日のない月になりましたが、月末には年末年始のまとまった休日が控えています。以前は七月、八月も祝日がない月でしたが、海の日、山の日の制定で夏休み、お盆休みに加えて休みの多い月になってしまいました。一方、六月に関しては、祝日を設ける話など、気配もありません。一年の折り返しの月に、1日くらい休みがあってもいいような気がするのですがね。では、祝日を設けるとしたら、何の日がいいでしょうか? 昼の長さが一番長い「夏至」は二十四節気の一つで資格としては十分ですが、あいにく梅雨の真っ只中。日照時間が短くどんよりしているので昼が長いという実感がありません。それに、これから日が長くなるぞという冬至のような高揚感もありません。父の日も、五月の母の日にくらべて影が薄いのと、もともと日曜日ときめてあるのでこれも失格です。10日の時の記念日もいまひとつピンときません。 ところがどっこい、今はすっかり忘れられてしまっていますが、名称の文字からしておめでたい「嘉祥(かじょう)の祝い」という習わしが平安時代のはじめから江戸時代まで、毎年六月十六日にさかんにおこなわれていたのです。ことに、江戸時代には、神君・徳川家康公が命からがら切り抜けた三方原の戦いの際、たまたま拾ったのが嘉定銭だったとか、助かったお祝いにと菓子商大久保藤五郎が菓子を献上、それを家臣に分け与えたのが始まりだとかの逸話も絡めて、大きな恒例行事になったという。祝いの当日は対面所の大広間にずらりと菓子を並べ、参賀の諸大名や旗本たちに一包みずつ配られました。御三家や重臣には将軍自らが配ったといわれます。将軍退出後には、下役にまでふるまわれ大奥でも同様な行事が行われました。◆◆毎朝テレビをつけると、いろんなスイーツを紹介する番組がさかんです。おむすびがハンバーグに迫るほど人気が高まっているように、和菓子も洋菓子に負けないくらいもっと人気が出ていいような気がします。なんといっても見た目のうつくしさ、季節をもりこんだ趣向は洋菓子にはまねが出来ません。それと、甘みも丁度良い。海外で洋菓子を買って食べたらその甘さに辟易したという経験は多くの方がお持ちでしょう。和食がユネスコの無形文化遺産になった際、和菓子も、和食の一部として含まれたようですが、それでは添え物的で気の毒。甘党の私としては「嘉祥の祝い」をぜひ「六月の祝日」に推挙したい思いですが、賛同は得られるでしょうか。ちなみに、六月十六日は全国和菓子協会が1979年に「和菓子の日」に制定しましたが、いまひとつキャンペーンが行きわたっていないように感じます。バレンタインデーのように、この日に美味で美しい和菓子を大切な人に贈ると幸せになれるといったイキな演出をするのもいいのではと思うのですが。(写真 Amazon)

MOBA・幸語歳時記「神田祭」

ゴールデンウィークの連休が明けると、東京下町には神田祭(5月11日~15日)、浅草三社祭(5月16日~18日)と、初夏の到来を告げる祭の季節がやって来ます。三社祭は一観客として威勢のいい神輿の宮入を見物しただけですが、神田祭のほうは一時期私が東神田に仕事場を設けていたこともあって、より身近に体感することができました。祭が近づくと町の一角に据える据えられ、寄付者の名札が並び、数多の提高々高々と掲げられ、宵宮にはその万灯に灯が点ると、昼間は東京大空襲で丸焼けになったあとに建てられたワンルームマンションやオフィスビルばかりの殺風景な町並みが、江戸の下町に一変します。多くの古い町名が消滅した中、神田界隈は神田鍛冶町、神田紺屋町、神田北乗物町など、むかしながらの町名が残っているほうですが、新しく変わった町も祭の間は昔の町名に戻り、旧氏子町ごとに、山車や神輿、その他の趣向を競い合うことになります。◆◆天下祭と呼ばれる神田祭は、もう一つの天下祭、日枝神社の山王祭と交互に隔年ごと本祭りが催されますが、今年令和七年は神田祭が本祭りとなり盛大に執り行われます。なにしろ神田明神の氏子町は、神田はもちろんのこと日本橋、大手町、丸の内、秋葉原といった地域をカバーし、氏子には名だたる大企業や百貨店、老舗の商店などが軒並み名を連ね、社員が動員されるのですから、氏子百八町を鳳輦、山車、神輿が巡る神幸祭や趣向を凝らした附け祭の行列はひときわ華やかで、参加者は数千人にも上る大行列になります。附け祭には、祭神の平将門にちなんで勇壮な相馬野馬追や茨城県坂東市の板東武者行列も参加し、一帯は祭一色に染め尽くされます。一見の価値がある伝統行事ですのでお出かけになってみてはいかがでしょう。◆◆神田祭にも一時期ピンチが訪れたことがありました。江戸時代には九月に行われていたのですが、明治維新の際、新政府が朝廷に刃向かった平将門を祀るとはけしからんといって難癖をつけたためしばらく休止のやむな到り到りましたが、氏子らの強い要請でじきに復活しました。ところが復活最初の祭に台風が襲来、その次も悪疫が流行するなど、つづけてケチがついたため、時期を現在の五月に移し、今や東京の初夏の風物詩として欠かせない存在となったのです。そんな経緯にも思いを馳せ、見物するのも一興でしょう。(写真 神田明神公式サイトより)

MOBA・幸語歳時記「GW閑話」

「ゴールデンウィーク(GW)」は和製英語のようです。四月末から五月初めにかけて祝日の休みがつづくこの期間をこう呼ぶようになってから高度経済成長期の頃までは、サラリーマンにとって文字通り「黄金」のように貴重な一週間でした。といっても当時は天皇誕生日(昭和天皇)、憲法記念日、こどもの日の3日だけ、それも運悪く日曜と重なると今のように振替休日などありませんから1日損することになります。憲法記念日とこどもの日にはさまれた5月4日をみどりの日にして必ず三連休になるなんて配慮もありませんでした。しかも、土曜日は平常通りの出勤日でしたから、一番運がいい年で、3日連休がせいぜい、あとは休んだと思ったら翌日出勤してまた休みという「飛び石連休」(今は事実上死語になりました)が当たり前。今みたいに「どうせなら、土、日、祝日、振替休日に2日ばかり加えて、超大型連休にしてしまえ」なんていう太っ腹な会社などどこにも見当たりませんでした。ですから、今日のように8~10連休を取れるなんて夢のまた夢の話だったのです。さらにさらに、年間を通しても、休日自体が「建国記念の日」「みどりの日」「山の日」「海の日」「体育の日(スポーツの日)」など、高度成長期当時の10日から15日に増えたうえ、振替休日、国民の休日なども加わりました。結局、高度経済成長期当時、サラリーマンが一年365日のうちで休めるのは、日曜日がほぼ52日、祝日がほぼ8日(日曜と重なるため)の、たった60日と正月三が日くらいそれが現在では、日曜日と土曜日合わせて104~5日、祝日・振替え等、年末年始で約20日、これだけでも実に365日のうち3日に1日は休みを取っていることになります。当時も有給休暇はありましたが、大半の人はろくに取らずに、会社に買い上げてもらっていました。育休なんてものももちろんありません。いわば、日本中がブラック企業状態でした。◆◆このように、当時とくらべれば今はなんと休日に恵まれていることでしょう。給料が上がらない、生産性が伸びない、失われた何十年などとよく言われますが、サラリーマンが仕事から解放される休日の数は2倍をはるかに超えているのです。にもかかわらず、多くの人は「ゆとり」が増えたとは感じていないようです。逆に「過重労働感」に悩まされ心身まで害される人は減るどころか増加傾向にあるように思えます。企業側もwellbeingなどのスローガンを掲げて休日を取りやすくしたり、働く環境の改善に努めていますが、思うように「幸福感」を高める効果が出ているとも思えません。◆◆なかなか難しい問題ですが、ひとつ考えられることは、あまりに休日が多くなった分ありがた味を感じなくなって、ぞんざいにあつかっているということもいえましょう。休みの日でも、いつもと同様に「情報」に追い立てられ、誰かとコミュニケーションをとっていないと置き去りにされるのではと不安になる、どこかへ出掛けないとまた不安になるといった具合で、休日が「閑暇」になっていないということもあるのではないでしょうか? 何もしないことが罪悪と考え足りせず、思い切って「情報源」を絶ち、「無為是好日」を決め込む連休があったっていいのではないでしょうかね。◆◆土曜日も普段通り働き、祝日の休みも少なかった当時、朝早く父親が物置から旗竿と日の丸の端を引っ張り出して玄関先に掲げていた光景を思い出します。戦前だけでなく戦後になってからも「旗日」には家々で国旗を掲げるのが当たり前の時代がありました。交通機関はじめ町中が日の丸だらけでした。なんとも清々しく「今日は祝日なんだ」と実感したものでした。それが、いつの頃からかそんなことをすると奇異の目で見られるようになりました。それと共に祝日は「皆でこぞって祝う特別な日」という感覚が薄れているような気がします。昔のような働きづくめはごめんですが、もう少し大事に過ごしてもいいのではないでしょうか。

MOBA・幸語歳時記「お遍路」

「お遍路が一列に行く虹の中 風天」 風天とはフーテンの寅こと渥美清さんの俳号です。弘法大師ゆかりの四国八十八カ所を巡る「お遍路」さんは春の季語になっています。全行程1200余キロ、昔ふうに言えばおよそ300里を徒歩で歩くと、健脚の人で45日、やや遅い人だと60日つまり2カ月もかかる大旅行。これだと気候のいい「春」でないとなかなか走破出来ないということでしょう。今ではバスツアーで季節を問わず巡ることもできますが、それでも全霊場の山坂を登り降りするのは、若くて元気なうちでないとしんどいでしょう。とはいえ、若いうちはヒマが取れず、結局行かずじまいで歳取ってからもうムリと諦める人が大半でしょう。でもそこはよくしたもので、同等の御利益を手っ取り早く得られる工夫を先人も考えました。中でもよく知られているのが、京都仁和寺の八十八カ所巡り。お寺の北側の成就山の坂道の途中途中に、四国八十八カ所を模した小ぶりなお堂(札所)が設えてあります。ここだと全行程3キロ約2時間でまわれます。仁和寺という立派なお寺のおスミつきですから、御利益を得られるに違いありません。私も四国の本家のほうは訪ねそびれてしまいましたが、幸い仁和寺の札所巡りは体験することができました。ここなら体力に自信のないシニアでもムリなく札所巡りができます。仁和寺といえば京都でも指折りの桜の名所。お花見どきにでも一度訪れてみてはいかがでしょう。京都まで出掛けるのもおっくうだというシニアには、さらに簡便な方法で御利益にあずかれるお寺が東京にもあることを最近知りました。西早稲田ににある放生寺というお寺(隣りにある穴八幡宮とは神仏習合で神社の別当寺として対の関係です)で、毎年巡礼のシーズンに合わせ四月十八日に、四国八十八カ所から取り寄せた砂の上を参拝者が踏む「お砂踏み」という行事が執り行われます。これは、足腰の弱い人にもお遍路したのと同等の御利益をということで考案されたものでシニアにはうってつけです。ここまで行ったら、ちょっと足を伸ばして近くの戸山公園にある「箱根山」に寄ってみるのも一興でしょう。本家とはくらべものにならない僅か45メートルほどの超低山ですが、新宿区内では最高峰とか。こちらもお花見シーズンがお勧めです。(写真 西早稲田「放生寺」)

MOBA・幸語歳時記「お花見」

呑めや歌えやのドンチャン騒ぎのお花見スタイルは、八代将軍徳川吉宗が音頭を取ったことで始まったとされています。テレビの時代劇から「暴れん坊将軍」として知られる吉宗ですが在任中は巷間で「コメ将軍」とか「ケチ将軍」と呼ばれていたようです。米価の安定を最重要課題に掲げたのと、質素倹約を奨励し自ら冬でも木綿服をを着用、足袋も履かず、食事も一汁一菜を実践した事からこんな渾名がつけられたのですが、ケチケチ暮らしに付き合わされる側はたまったものでなく、庶民の間に不満が鬱積しかねません。でも、ただのケチ将軍ではなく「アイデア将軍」でもあったのが吉宗です。そこで不満のはけ口「ガス抜き」として考え出したのが「花見」でした。当時も今と同様、上野も桜の名所でしたが、寛永寺の所領だったため歌舞音曲は禁止でした。ならばと、いくら騒いでもお咎めなしの場を設けようということで、桜を植樹し一大花見の場、現代の「公園」のはしりみたいにしたのが「飛鳥山」でした。もくろみは図に当たり、裕福な商人だけでなく、貧乏長屋の住人たちまでが、こぞって遠足気分で花見を楽しむようになりました。桜の植樹はは隅田川沿いの墨堤でも行われ、花見客が踏み固めることで堤防の補強されるという、一石二鳥をねらったというのも、ケチ将軍吉宗ならではのアイデア。ケチだけれど乗せ上手だったのも吉宗の得意技と言えるでしょう。あの町火消し制度だって、「イキだね、イナセだね」「イヨッ、男の中の男!」なんて褒め言葉を広めることで、鳶職の連中は競ってボランティアで火の中に飛び込んだのですから。また、吉宗の他の偉人と違うところは、その時代のための施策だけでなく、ずっと後世にも残ることを発案したことでしょう。「お花見」の習慣もそうですが、「隅田川花火大会」も、吉宗が始めた「両国の川開き」に発したイベントですし、「小石川植物園」も、高い薬草を中国からの輸入に頼らず自国で栽培しようと始めた「御薬園」(貧民救済の治療施設、養生所に付設)を引き継いだものです。青木昆陽を登用し、栽培を普及させた「さつまいも」が、その後の飢饉のみならず、あの太平洋戦争、戦中戦後の食糧難時代の日本を救い、餓死者続出という状態にならずにすんだのも、吉宗さんのお陰だということを忘れてはならないでしょう。コメ将軍なら今の「令和のコメ騒動」どんな手を打つでしょうか。

MOBA・幸語歳時記「雛まつり」」

中国の陰陽の思想で、奇数は縁起のいい「陽」とされることから、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日と奇数が並ぶ日を節句として祝う習慣が日本でも定着しました(一月だけは七日)が、中でもひときわ華やいだ気分で祝うのが、三月三日のお節句でしょう。もともと上巳の節句と呼ばれ、宮中で行われた「曲水の宴」が、祓除の「雛流し」の風習と結びつき、太平の江戸時代に「雛まつり」として庶民にまでひろがり、世界でも類のない、女児の成長を祝い「幸せ」を祈る行事となりました。旧暦だと春たけなわの時季なので「桃の節句」と呼ばれるようになり一層華やいだ祝事となったのです。◆◆当時、女性にとっての「幸せ」とはなんだったのでしょうか。外国からは今でも日本は男性上位の社会で、昔はもっとその傾向が強かったと思われがちですが、中東諸国などとはまるで違います。六歳くらいになれば男の子同様手習い所(関西では寺子屋)に通わせてもらえたし、早ければ十歳くらいから奉公に出される男の子より長く親元でしっかり教養や芸事を身につけることも出来ました。ですから、よく物事をわきまえた「しっかり者の女房に頭の上がらない亭主」というパターンは、なにも落語や芝居の世界だけではなかったようです。その名残が現代の日本でも、家で財布のヒモを握るのは妻で「大蔵大臣」と呼ばれ、夫のほうは妻がきめた「おこづかい」をもらっていそいそと働きに出るという、外国では見られない風習が当たり前のこととして存続しているのです。つまり亭主を上手く操縦できる「賢い女性」に育てるのが親の務めであったとも言えます。◆◆「賢い娘」と評判が立てば、ひょっとして大店の旦那の目にとまり、嫁入りして店を切り盛りする立場になれるかも知れません。さらに、町人だって「玉の輿」の語源となった桂昌院のように、八百屋の娘から、大奥にスカウトされ、将軍の生母となり、あの副将軍と呼ばれた黄門さまより二階級も上の従二位にまで上り詰めた例もあることから、大奥はともかく大名屋敷に入れるチャンスだってまんざらないわけではありません。そんな「女の幸せ」を、江戸時代の三月三日は、親も娘も夢見る日だったのかも知れませんね。(写真 享保雛=京都大橋弌峰)