MOBA・隠居探偵「本能寺の真相、光秀の深層」

日本の戦国時代、タブーとされた「豊臣秀頼はほんとうは誰の子?」の疑問の解明を試みましたが、今回は同じく戦国時代の謎とされる「本能寺の変」を取り上げてみました。天下統一寸前だった織田信長が明智光秀の謀反によって自刃するという前代未聞の大事件は、あの才知に長けた光秀ともあろう男がなんであんな無謀な挙に出てたのかという「動機」が謎とされ、諸説紛々。枚挙にいとまないほどですが、ここではやや視点を変え、今日の社会とも重ね合わせて光秀の心の深層に分け入ることで事件の真相に迫ってみたいと思います。人間の心理は時代が違ってもあまり変わらないと思うからです。◆◆今や転職や中途入社はごくあたりまえですが、団塊の世代よりほんの少前前頃までは、転職には相当な勇気と覚悟が要りました。今でも転職の成功率は,転職斡旋業者のコマーシャルほどには高いと思えませんが、明智光秀の場合、零細企業から急激にのし上がったワンマン社長の会社に飛びこんだようなもの。まして、手のつけられないやんちゃなガキ大将だった跡取り息子と、言われるままに追従する元悪ガキの家来とがそのまま社長と社員になり、あとは古参の大番頭の勝家や、いくら叱られても平気でおもねることができる秀吉と言った面々ばかり。そんな中にインテリの光秀が身を置くのがいかにたいへんか容易に想像できます。◆◆社長の信長は「あやつにやらせておけば何とかなる」と重宝がるのはいいが、次から次にやっかいな仕事を与える。最前線での陣頭指揮はもちろんのこと、京都の行政、公家や朝廷の面倒見、はては馬揃えといったイベントの企画進行、さらには賓客の接遇まで、とてもたたき上げの連中には手に負えないお役目ばかり。しかもなまじ光秀がデキる男なので、なんとかこなしてしまう。周りは難仕事を抱えさせられているとは見てくれません。信長も光秀の苦労に見合う評価をしてくれているとは思えません。当時日本に来ていた宣教師のフロイスは光秀を信長同様、残酷で野心家と評しているが、表面的にはそう見えても、幹部社員と中途中途採用された身では、本心とは全く反する身震いするほどイヤなことでもイヤとは言えない立場です。比叡山の焼き討や越前一向一揆勢の虐殺など、光秀にとってはまさに「堪え難きを堪え」だったでことでしょう。◆◆光秀の実像は、側室も持たず、疱瘡にかかった妻と終生共にし、統治した丹波では善政を施し領民に後々まで慕われたことからも、ごくマトモな人物と思われます。ただ、内にに秘めたプライドは高かったのでは。それは、明智光秀という名前に隠されている考えられないでしょうか。当時、名前の付け方は相当イイカゲンなものでした。羽柴とか豊臣と勝手に名乗った秀吉を例に取るまでもなく、誰でもテキトウに源氏や平家の流れと称するし、あの家康だって、将軍になるために最初は平家の末流と言っていたのがいつの間にか源氏の嫡流と称し、松平信康から自分で徳川家康に改名してしまっています。光秀にしても土岐氏の支流という説もありますが、むしろこの名前は光秀自身がつけたとも十分考えられます。というのは、明智とは老子にある「人を知る者は智なり、自らを知る者は明なり」を出典としていていかにも学識のある光秀らしく、それに光輝の「光」と優秀の「秀」の文字とで構成されています。だれだって良い名前をつけたいと思うでしょうが、全てこれほど極上の文字に揃えた例は見ません。ただ残念なことには、謀反人の名という悪いイメージが重なってしまって、素晴らしい名前だとは誰も感じないでしょう。この名前からも「自分はこんなところに納まっている人間ではない」という自負心が伺えます。◆◆信長は人に仕えたことがありませんから、下の者の心情や痛みを理解することなどできようはずがありません。光秀だってそれは十分承知で「ああいう気性の上司を選んだのは自分自身なのだから」「それなりに目を掛けられ城持ちにまでしてくれたのだから良しとしなければ」と幾度となく自分に言い聞かせてきたに違いありません。途中でハシゴを外されるても「ワンマン社長ならよくあること」と割り切ろうと思ったことでしょう。でも何事にも限界があります。ついにブチ切れる瞬間が光秀に訪れました。それは、宿願の武田氏を滅亡させほぼ天下布武に近づいた「関東討ち果たし」から帰還した際の祝宴での信長の一言と仕打ちでした。「これでようやく天下も治まり、我々のこれまでの苦労も報われたというものです」とふと口にした光秀の言葉に、信長が「貴様が今まで何をやってきたというのか」と狂ったように激怒し、何度となく打擲したことです。光秀にしてみれば、「これまで自分の手柄もみな信長のものとしてひたすら耐えに耐えてきたこの十六年間はいったいなんだったのか」という、血が引くような思いが一気にこみあげたことでしょう。この瞬間が「臨界点」だったのです。天正十年五月、決起の一ヶ月前のことでした。◆◆そして、日を待たずして、信長配下の諸将が各地に散り、信長の身の周りが空白となる事態が偶然にも訪れたのです。光秀の行動が無謀だとか、せめて細川忠興など親しい向きへの根回しをしておくべきだったなどと後から指摘するのはたやすいことです。でも、もし事前に誰かと相談したら、きっとだれもが押しとどめるのはわかりきっていますし漏洩の危険性があります。逃したら逃したら二度とこのような機会が訪れないでしょう。光秀にもはや思いとどまるという選択肢はなかったのです。光秀の行動には、足利義昭や朝廷公家など黒幕の力が働いていたという説もあります。そのほか、家康饗応の際の失態説、天下取りの野望説、長宗我部元親との信義を無視して信長が四国攻めに踏みきったからという説、光秀が統治していた丹波、丹後を召し上げ出雲、石見を切取りしだいにせよという信長の命への反発説などさまざまですが、真の動機はほかでもない、知将光秀にして、理性を超えたやむにやまれぬ心情そのものに求める以外ないのでは、と思うのです。