MOBA・幸語歳時記「百人一首」

羽根つきや凧揚げなど、正月の風物詩が次第に蔭を薄くしていく中で、「百人一首」の遊びはまだまだ廃れるどころか、「カルタ甲子園」など、若い世代にも脈々と受け継がれているのは嬉しいかぎりです。これはひとえに百首の歌の選者・藤原定家の力に与っていると言えるでしょう。ところが、この百人一首に選ばれた歌を「駄作」だという風潮が江戸時代ころから見られるようになり、これに輪を掛けたのが明治時代、俳人、歌人として名を馳せた正岡子規でした。「百人一首の歌人の作にももっといい歌があるのに、なんで選りに選ってこんな歌を?」というのが駄作論者の投げかけた疑問でした。この道の大御所が言うのですから、その影響は大きく、一般の人もそんなもんかなあと思う人が多くなりました。その結果、「藤原定家ほどの歌の名人が駄作を選んだのには、なにか別の理由が隠されているに違いない」というわけで、ミステリー作家から研究者まで、さまざまな人が「百人一首の謎」解きに挑戦し多くの本まで刊行されています。この百首の歌を並べ替えると、藤原定家のメッセージあるいは暗号が読み解けるというのです。ホントカナ!?◆◆もし、百人一首が駄作集だったら、これほど時代を超えて愛され続けられるワケがありません。一言でいえば、駄作論者や謎解き家と藤原定家とでは「美意識」のレベルが違うということ。もう一つの誤りは「木を見て森を見ず」して批判していることでしょう。百人一首を否定的に見る人たちは、個々の歌に目を向けて全体を見ていないのに対して、藤原定家はその卓越した「美意識」によって、全体としてこれ以上ない調和とバランスの取れた百首を選んだまでのことです。そこには、美意識という基準以外、謎もメッセージも、秘密も暗号も存在しないのです。◆◆もし駄作論者の言うように、例えば西行の「なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな」の代わりに、代表作の一つ「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」を選んだとしたら、また、後鳥羽上皇の「人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は」の代わりに代表作「われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」を選んでいたとしたらどうだったでしょうか? メデタイ正月の行事に西行の「死」を詠んだ歌など縁起でもないと忌諱され、遊び継がれることなどけっしてなかったでしょう。また後鳥羽上皇の「われこそは」の歌にしても、こんな力みかえった歌が百人一首の中に組み込まれていたら、ブチ壊しでしょう。藤原定家にしても、自分の美意識で選んだ百人一首が、令和の時代までゲームとして若い世代までうけつがれているとは思いもよらなかったことでしょう。でも、結果として現代なお私たちに正月の楽しみを与えてくれている定家に改めて「ありがとう」と言いたいと思います。(下掲は「百人一首の謎?」解明本の例)