MOBA・幸語歳時記「雛まつり」」

中国の陰陽の思想で、奇数は縁起のいい「陽」とされることから、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日と奇数が並ぶ日を節句として祝う習慣が日本でも定着しました(一月だけは七日)が、中でもひときわ華やいだ気分で祝うのが、三月三日のお節句でしょう。もともと上巳の節句と呼ばれ、宮中で行われた「曲水の宴」が、祓除の「雛流し」の風習と結びつき、太平の江戸時代に「雛まつり」として庶民にまでひろがり、世界でも類のない、女児の成長を祝い「幸せ」を祈る行事となりました。旧暦だと春たけなわの時季なので「桃の節句」と呼ばれるようになり一層華やいだ祝事となったのです。◆◆当時、女性にとっての「幸せ」とはなんだったのでしょうか。外国からは今でも日本は男性上位の社会で、昔はもっとその傾向が強かったと思われがちですが、中東諸国などとはまるで違います。六歳くらいになれば男の子同様手習い所(関西では寺子屋)に通わせてもらえたし、早ければ十歳くらいから奉公に出される男の子より長く親元でしっかり教養や芸事を身につけることも出来ました。ですから、よく物事をわきまえた「しっかり者の女房に頭の上がらない亭主」というパターンは、なにも落語や芝居の世界だけではなかったようです。その名残が現代の日本でも、家で財布のヒモを握るのは妻で「大蔵大臣」と呼ばれ、夫のほうは妻がきめた「おこづかい」をもらっていそいそと働きに出るという、外国では見られない風習が当たり前のこととして存続しているのです。つまり亭主を上手く操縦できる「賢い女性」に育てるのが親の務めであったとも言えます。◆◆「賢い娘」と評判が立てば、ひょっとして大店の旦那の目にとまり、嫁入りして店を切り盛りする立場になれるかも知れません。さらに、町人だって「玉の輿」の語源となった桂昌院のように、八百屋の娘から、大奥にスカウトされ、将軍の生母となり、あの副将軍と呼ばれた黄門さまより二階級も上の従二位にまで上り詰めた例もあることから、大奥はともかく大名屋敷に入れるチャンスだってまんざらないわけではありません。そんな「女の幸せ」を、江戸時代の三月三日は、親も娘も夢見る日だったのかも知れませんね。(写真 享保雛=京都大橋弌峰)