MOBA・隠居探偵・「秀頼は誰の子?」

ミステリー界には時折アームチェアディテクティブ(安楽椅子探偵)なるキャラクターが登場します。事件の現場に踏み込んで犯人捜しするのでなく、家を一歩も出ず椅子に座ったまま推理力を働かせ事件の謎を解き明か頭脳派探偵のこと。これなら、足腰が少々弱くなったシニアにもできそう。現場に行こうにも行けない歴史上の事件の謎を追うのが隠居探偵です。さあさっそく「豊臣秀頼出生の謎」から入ることにしましょう。◆戦国最大のタブー「秀頼は豊臣秀吉の実子に非ず」説は、いつか歴史の闇にかき消され、専門家も論ずることはない。だが、真実はどうなのか? まず論点を整理してみよう。1⃣非実子説の論拠2⃣非実子説消滅の背景3⃣大野長治父親説の説得力4⃣他に有力候補は?その根拠は?5⃣淀殿のアリバイは成立するか?◆◆まず1⃣だが、今ならDNAで一発で判るところだが、時は戦国、状況証拠でいくしかない。一つは秀吉の年齢だ。淀殿との間に第1子鶴松が生まれたのが1586年秀吉54歳のときとされる。鶴松は2歳で夭折したがその翌々年1593年に第2子秀頼(お拾)が生まれたとされる。このとき秀吉58歳。秀吉の女狂いはつとに知られており、戦で遠征した先々でも数え切れないほどの女性をものにしているが、子供には恵まれなかった。いや、京都の女性との間に1人生まれたという説があるにはある。だが、鶴松、秀頼誕生の際には狂喜乱舞した秀吉が、このときは歓喜したとは伝えられていない。このことから、子が生まれた事実がなかったか、秀吉が自分の子と認めなかったかのどちらかだろう。それほど子宝に恵まれなかった秀吉が、54歳のときの鶴松はまだしも、58歳で秀頼をもうけることができるだろうか? 当時の58歳は数え年とはいえ大層な老人だ。いや、徳川家康は60台で子供をなしているではないか、との反論もあるかも知れない。だが、家康は無類の健康オタク、自分で漢方薬まで調合し、食事や体力作りに人一倍留意した。当時希な75歳まで長生きした家康と、秀吉とではくらべものにならない。信長というパワハラのボスに仕え、織田ブラック軍団の中で懸命に泳ぎ、戦に次ぐ戦でこき使われた秀吉のほうは、その歳ですでにヨレヨレ、ボロボロになっていたはずだ。実際、秀頼誕生から4年半後の醍醐の花見の頃は、誰の目にも衰え甚だしく、その半年後に世を去っている。加えて、秀吉の身長は143センチと当時としても際立って小男で、指に障害があったと言われる。また、秀吉と比べればあらゆる面でマトモな実弟の秀長にも子がなかったことから、子宝の授かりにくい家系のようだ。これらを考え合わせると、秀吉の当時の年齢で、しかも淀との間にだけ、子供ができた可能性はゼロとは言わないが極めて小さいとみるのが妥当ではないか。◆◆◆2⃣秀吉と秀頼とでは風貌もまるで違うことからも「非実父説」は取り沙汰された。にもかかわらず闇に葬られたのはどうしてだろう。もちろん時の天下人で絶大な権力を持つ秀吉があらゆる手立てを尽くしだろうし、表だって口にすれば殺されるのは間違いない。とはいえ、世間の口に戸は立てられぬもの。ところがなんと、秀頼が秀吉の実子で正当な後継者であると保証する強力な人物が現れた。大実力者の徳川家康である。家康にとって、秀頼が秀吉の実子ないことは何のトクにもならない。それどころか「実子であってもらわなければならない」存在だったのだ。普通に考えれば非実子説を流布して、豊臣陣営の乱れを誘い、内部崩壊させ、戦わずして天下を手中に収める方がトク策のようだが、武士の世ではそうはいかない。武力をもって相手をねじ伏せなければ勝者とは認められない。それも、どこのウマの骨か判らぬ相手では意味がない。そこで家康は終始秀頼を真の世継ぎとして遇したのだ。そうなれば世間も「天下の大御所様が言うのだから間違いあるまい」で一件落着となったのではなかろうか。◆◆3⃣いま一つ「非実子説」の弱みは、「では、誰が実の父親なんだ?」の問いに対して明確にその名前を挙げ、根拠を示すことができていないことだ。具体的な名前が浮かんだのは「大野長治」。長治は淀殿の乳母である大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)の子だから、淀殿とは乳きようだいの関係にある。生涯、淀殿と秀頼の側近として忠誠を尽くし、大坂城落城の際も、秀頼、淀殿と共に自害して果てた。といって、長治が淀殿と通じ秀頼を儲けたとはいえない。いかに主従に徹したとはいえ、生身の人間、やはり何かの折に肉親の情が露見するものだが、長治に関してはそうした話は一切聞かれない。◆◆4⃣大野長治でないとしたら、他に誰か有力な候補がいるのか。これまで、ほとんど下馬評にも上らなかった一人の人物がいる。それは「豊臣秀次」である。なんて言えば「ウソー」の大合唱が聞こえそうだ。秀次が秀頼の実の父親ではあり得ないという論拠が山ほど出て来るだろう。だが、その論拠を崩しうるとしたらどうだろ? 秀次は秀吉の甥(実姉の子)で、秀吉の数少ない血のつながった親族だ。鶴松の死でいったんは自分の子供を諦めた秀吉が、後継者に指名し、関白の位まで譲っておきながら、秀頼が誕生するや、手のひらを返したように邪魔者扱いされ、謀反の罪を着せられた上、殺生関白なる汚名まで被らされ、叔父の秀吉によって自害に追い込まれた。それだけではない。秀次の正室、側室、その子等はじめ、一族39人が惨殺処刑されたのだ。そんな運命の人物、秀次が淀殿と関係を結び秀頼を儲けることなどあり得るはずがないとキメつけるのはたやすい。だが発想を転換して、それが「秀吉の命令」による公認の関係だったとしたらどうだろう?そこには全く別の景色が見えてきて、これまで何かモヤモヤしていたものが霧が晴れるようにスッキリと解明できる。◆◆◆◆◆❶淀殿(茶々)は、父(浅井長政)母(お市の方)のみならず義父(柴田勝家)まで殺した仇であるうえ、醜男で卑しい身分から成り上がった秀吉を蛇蝎のごとく毛嫌いしていた。なのに、たとえ生きる手段とはいえ側室となり、子まで儲ける関係を許容できたのか、大きな謎である。❷秀頼が我が子ではないのではと、真っ先に疑念を抱くはずの秀吉自身が、あれほど手放しで可愛がり、豊臣家の正統な後継者として通し続けることができたという謎。❸一時は全幅の信頼を寄せ、関白の座まで譲った身内である秀次とその妻子らに、秀吉がああまで残酷な仕打ちにできた謎。これら3つのモモヤモヤした謎を、実は「秀次が秀頼の実父(秀吉公認の)」だったとした仮定で考えてみよう。難攻不落の茶々を攻め落とすため、秀吉は一世一代の奇策に打って出た。それが秀次に噛んで含めて「自分の身代わりになれ」と命ずるアイデアだ。秀次は流布された悪評とは違い、貴公子の風貌で、文武両道に長け、きわめて分別のある人物だったことは、宣教師ルイス・フロイスの書にも記されている。四国攻めなどで武功を上げたうえ封じられた近江八幡の街づくりにも手腕を発揮している。また、茶々と秀次は一歳違いで、茶々が妹たちと、北ノ庄落城後に安土の寺で過ごした時期と、秀次が隣町の近江八幡を治めていた時期と重なることから、二人がすでに見知っていたとしてもおかしくない。それゆえ秀吉の奇想天外の案にも乗ることができたのではないか。「奇想天外」の策といったが、実は西洋にも同様の逸話(「ダンテの神曲」にある挿話;醜い領主が弟に身代わりさせる)が見られることから、まったくあり得ない話ではない。茶々にしても、豊臣家の世継ぎの生母の座を得たうえ、織田、浅井の血を後世までつなげられるのだから、悪い話ではない。かくしてこの件は、秀吉、秀次、淀殿の三人だけが墓場まで持って行く秘匿事項となったのだ。❷については簡単に説明がつく。豊臣とは縁もゆかりもない父親の子だったら、世継ぎだと言って騒ぐ気にもなれないだろうが、秀次が父親なら、正真正銘豊臣の血筋となる。❸については、自身のアイデアだったにもかかわらず、秀吉は老いに狂気も加わり、猜疑心と嫉妬心が募った結果ああまで残酷な仕打ちに駆り立てたのではないか。◆◆◆◆◆◆さて、冒頭で挙げた論点に戻ろう。「秀吉実父説」の切り札は5⃣の「淀殿のアリバイ」である。秀頼を懐妊した時期、淀殿は朝鮮出兵の最中で九州の名護屋城に秀吉と共に長期滞在していて、畿内には居なかったという証言である。だが、これは別の側室(京極龍子)の見誤りと言う説もあり絶対的なものとは言えない。だとすれば、京に残って政務を執り行っていた秀次にも機会はあったことになる。◆◆◆◆◆◆以上いささか長くなったが、これでも本来長編歴史ミステリーにでも仕立てるほどの大きなテーマを、駆け足で説き明かそうとしたため、説得力が十分でなかったかもしれないがお許し願いたい。また、この「秀次実父説」はあくまで「隠居探偵」としての推理、解明であって、真相と捉えるかはあなたの判断におまかせします。