MOBA・幸語歳時記「春眠」

うつらうつらしてふと時計に目をやると、いつもの起床時刻をかなり過ぎていました。暦のうえでは春といっても、まだまだ外気は冷たく、それに近頃はエアコンの自動運転で、季節感が鈍っているはずなのに、からだのほうは一足早く季節の移ろいに反応しているようです。毎年春になると、唐の孟浩然の詩「春暁」の全部は覚えてなくても、冒頭の「春眠不覚暁(しゅんみんあかつきをおぼえず)」は誰もが共感を覚える句です。でも、そう思いきや、世の中には「朝型人間」と呼ばれる人が結構多くいて、このタイプの人は春眠の心地よさを味わうことなどには無縁で、えてして「早起きは(誰にとっても)良いことだ」と堅く思い込んでいるフシが見られます。今はどうか知りませんが以前ある著名な運送会社の社長さんが、自分は率先して早朝会社に出勤し、全国の支店長に電話を掛けまくるのを日課にしているのだと得意げに語ってい聴いた聞いたことがあります。そこまでいかなくとも「早朝ミーティング」や「早朝勉強会」が好きな経営者は多いようです。そういった朝方人間の上司に付き合わされる部下のほうはたまったものではありません。私の場合は、幸い朝型の会社に身を置いた経験はありませんが、通勤時間が長くかかるところが多かったせいで、会社を退いて自由な身になった当時、何が嬉しかったかといえば、目覚まし時計のけたたましい音に毎朝たたき起こされることから解放されたことでした!といっても、じきに家とは別に小さな仕事場を設け、ほぼ定時には「出勤」することにしたのですが、それでもきめられた時刻までに会社に着かなければならない日々とは比べものにならない幸せな気分でした。今ではその仕事場も引き払い、ステイホームの毎日ですが、歳取るにつれ早起きになるのと、からだがなまらないようにと、テレビ体操など朝の日課をきめて結構早朝に起床はしています。それでも気がむけば「春眠」を心ゆくまで味わえる身分をありがたいと思わざるを得ません。おっと、春眠をむさぼり過ぎて、寝たきり老人にならないよう気をつけねば‥‥。

MOBA・幸語歳時記「日脚伸ぶ」

幸せを感じる季節季節のことば(季語)を探す旅が「幸語歳時記」ですが、そんなことばの中でも、日常の小さな幸せをさりげなく言い表し、共感を覚える季語が「日脚伸ぶ」でしょう。冬至を境に日を追って少しづつ伸びていく昼間の長さが、気がつけばかなりの長さまで伸びている、それを実感するのがそろそろ暦の上では冬も終わろうという一月半ば過ぎのようです。季節の移ろいとともに規則的に日が伸びていくのは当たり前のことで、短い春はアッと言う間に過ぎ、日が伸び切った先には、またあの堪え難い猛暑が待ち受けているというのに、なぜか心愉しい、そんな気分を「日脚伸ぶ」は穏やかな語感を伴うやまとことばで表わしていて、同じ時季の「待春」や「春隣り」などとは違った心の動きが感じられるようです。◆◆「日脚伸ぶ愉しき明日が待つ如く」(菊池初音)「よきことの一つ日脚の伸びしこと」(京極杞陽)「心まず動きて日脚伸びにけり」(綾部仁喜)どの句にも余計な小細工などなく、ささやかでもほのぼのとした幸せ湧く話句だと思いませんか。

MOBA・幸語歳時記「百人一首」

羽根つきや凧揚げなど、正月の風物詩が次第に蔭を薄くしていく中で、「百人一首」の遊びはまだまだ廃れるどころか、「カルタ甲子園」など、若い世代にも脈々と受け継がれているのは嬉しいかぎりです。これはひとえに百首の歌の選者・藤原定家の力に与っていると言えるでしょう。ところが、この百人一首に選ばれた歌を「駄作」だという風潮が江戸時代ころから見られるようになり、これに輪を掛けたのが明治時代、俳人、歌人として名を馳せた正岡子規でした。「百人一首の歌人の作にももっといい歌があるのに、なんで選りに選ってこんな歌を?」というのが駄作論者の投げかけた疑問でした。この道の大御所が言うのですから、その影響は大きく、一般の人もそんなもんかなあと思う人が多くなりました。その結果、「藤原定家ほどの歌の名人が駄作を選んだのには、なにか別の理由が隠されているに違いない」というわけで、ミステリー作家から研究者まで、さまざまな人が「百人一首の謎」解きに挑戦し多くの本まで刊行されています。この百首の歌を並べ替えると、藤原定家のメッセージあるいは暗号が読み解けるというのです。ホントカナ!?◆◆もし、百人一首が駄作集だったら、これほど時代を超えて愛され続けられるワケがありません。一言でいえば、駄作論者や謎解き家と藤原定家とでは「美意識」のレベルが違うということ。もう一つの誤りは「木を見て森を見ず」して批判していることでしょう。百人一首を否定的に見る人たちは、個々の歌に目を向けて全体を見ていないのに対して、藤原定家はその卓越した「美意識」によって、全体としてこれ以上ない調和とバランスの取れた百首を選んだまでのことです。そこには、美意識という基準以外、謎もメッセージも、秘密も暗号も存在しないのです。◆◆もし駄作論者の言うように、例えば西行の「なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな」の代わりに、代表作の一つ「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」を選んだとしたら、また、後鳥羽上皇の「人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は」の代わりに代表作「われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」を選んでいたとしたらどうだったでしょうか? メデタイ正月の行事に西行の「死」を詠んだ歌など縁起でもないと忌諱され、遊び継がれることなどけっしてなかったでしょう。また後鳥羽上皇の「われこそは」の歌にしても、こんな力みかえった歌が百人一首の中に組み込まれていたら、ブチ壊しでしょう。藤原定家にしても、自分の美意識で選んだ百人一首が、令和の時代までゲームとして若い世代までうけつがれているとは思いもよらなかったことでしょう。でも、結果として現代なお私たちに正月の楽しみを与えてくれている定家に改めて「ありがとう」と言いたいと思います。(下掲は「百人一首の謎?」解明本の例)

MOBA・幸語歳時記「初夢」

昔の人は今より「夢見」を気にしたようです。ことに年が改まって最初に見る夢は、その年を占うためにも、なんとか縁起のいいものを見たいと、いろいろおまじないを考えました。その中でも、室町時代から次のような風習が広まりました。それは、ある和歌と七福神の絵を描いた紙を、元日(二日でもいいようです)の晩、枕の下に敷いて寝るといい初夢が見られるというのです。その和歌とは、たんなる和歌ではなく、前から読んでも後から読んでも同じ「回文」仕立てになっている、「長き夜の遠の睡りの皆目醒め波乗り船の音の良きかな(ながきよのとおのねぶりのみなめざめなみのりふねのおとのよきかな)」という歌です。なるほど前から読んでも後から読んでも同じ(濁音は無視)で、なんとなくおめでたい感じのする歌ではあります。まあ「遠の睡り」など意味がはっきりしないところもありますが、回文に免じて大目にみることにしましょう。七福神はともかくとして、この回文仕立ての和歌になんで御利益があるのか、いい初夢を見る切り札として選ばれた経緯は定かでありませんが、お陰でこの歌は今日もなお「回文の見本」のように扱われています。◆◆回文の例としてよく挙げられるのが「タケヤブヤケタ」「ダンスガスンダ」「ルスにナニスル」などですが、これだけではあまり面白くありません。かといって、「長き夜の‥‥」のように三十一文字の短歌に仕立てるのはかなり難しい。でも、五七五、十七文字の回文俳句なら、わりと出来そう。(⇒本サイト「脳活に「回文俳句」」もご覧下さい)。「長き夜の‥‥」の歌を枕の下に敷いて寝るのもいいですが、初春にちなんだあなたオリジナルの回文俳句をひねってみるのも一興でしょう。参考になるかどうかわかりませんが例句を二つほど:「高く富士そびゆる由比ぞ飛沫く方(たかくふじそびゆるゆひぞしぶくかた)」「遠の嶺は白銀聴くは羽根の音(とおのねははくぎんきくははねのおと)」

MOBA・幸語歳時記「年賀状」

新聞の暮らし面を開いたところ、「年賀状、上手なやめ方」の見出しが目に飛び込んできました。年賀状継続派としては「ついに、ここまで来たか!」と複雑な気分になりました。また、テレビでも「年賀状じまい」用のスタンプがハンコ屋さんで大いに売れているという話題を取り上げていました。かつては正月の風物詩だった羽根つき遊びが、すっかり見られなくなったように、年賀状もいずれ危惧種になるのでしょうか。子供のころ、元日に家族宛の年賀状がまとめて束になってドサッ着くと、自分宛のは僅かなのに、郵便受けまで飛んで行って、家族の宛名ごとに分けてめいめいにに配るのが嬉しくてしかたなかったことを思い出します。その頃と比べると年賀状の総数も減ったようですが、そうでなくても歳を取るにしたがって、徐々に減っていくのはやむを得ません。私の場合も近年は多い時分のせいぜい四分の一がいいところでしょうか。でも自分としては、続けられるだけ続けたいと思っています。たとえ枚数は減っても、年賀状をやりとりするということはそれなりに、ことにシニアにとっては、他に代えがたい効用があると思うからです。◆◆たしかに年賀ハガキを作って出すのには手間ヒマが要ります。私の年代ともなれば、出していい相手かどうかにも気を遣う必要があります。でも、面倒な思いをしても、シニアにとっては、それだけの気力、体力、元気がまだ残っている証拠。やめたらそれだけ老け込んでしまいそうです。それと、お互いの動静を確かめ合える年に一度だけのまたとない機会、むざむざ捨てるには惜しい気がします。まあ、シニアの年賀状は「まだドッコイ生きてる」という生存証明でもあり、また新しい一年を生きようという自分自身への決意表明と思えば、枚数は減ってもそれなりに意味があるように思います。◆◆もちろん年賀状続けるか続けないかは人それぞれの自由な選択で、他から余計な口出しすることではありません。でも、もしせっかく作って出すのでしたら、滅多にない機会なのですから、気持ちのこもったオリジナルな文章や作りにしたいものです。一期一会ならぬ一年一会を定型文の「謹賀新年、旧年中はお世話になりました。本年もよろしく」で済ましてしまうのでは、たとえ達筆の手書きでも味気ない。一筆、添え書きするのもいいでしょう。また、パソコンは苦手な人でも、プリンターなら安くて操作もかんたんです。オリジナルなものを1枚工夫して作れば何枚でも複製できるから便利です。。時間に余裕のあるシニアなら、この程度手間ヒマかけてもいいのでは‥‥。◆◆出す出さないは人それぞれの自由だなんていいながら、ずいぶん余計な口出しをしてしまいましたね。最近は年賀状をメールでやりとりする人も少なくないようですが、メールの年賀状をもらっても率直なところサッパリ嬉しくありません。お互いの幸せを願い、元気で生きていることを確かめ合う幸せを運ぶ年賀状という良き習わし、なんとかずっと続いてくれればと願います。

(写真:写団けやき土田厚実)

MOBA・幸語歳時記「こうごさいじき」

今回から「幸せ湧く話句」は「幸語歳時記」に変わります。といっても、基本的に「幸せだなァと感じる話題やことば探し」には変わりありません。ただ、探す場を日本語という豊かで奥の深く四季折々変わる「ことばの森」に求めてみようというだけのことです。外国の人にとっては、日本語は難しい言葉に違いありません。まず文字からして、カタカナとひらがな、そして膨大な数の漢字があり、それらを使い分ける必要があります。同じ漢字にしても音読みと訓読みがあります.。たとえば雨を表わす言葉にしても、降り方の様子や季節によって言い回しも読み方も数え切れないくらいあります。思いつくままに挙げてみても、五月雨(さみだれ)、梅雨、喜雨、夕立、白雨、秋霖、時雨、寒九の雨、春雨、卯花花腐し‥‥といった具合です。暦にしても西暦と元号の使って使っている国は日本くらいしかありません。外国人の目からは、なんと非効率で、もっと単純にしたらと感じることでしょう。でも、幸せなことに私たちは日本に生まれ育ったおかげで、あまり難しいと意識せずに習得してしまっています。一度覚えてしまえば、日本語くらい融通無碍で面白い言葉はありません。仮名と漢字、音と訓があるからこそ、豊富な語彙、豊かな発想と情趣ある表現が可能なのです。日本ほど多くの人が俳句や短歌などの詩歌をやさまざまな「言葉遊び」を楽しんでいる国民はほかにないといっていいでしょう。日本が先の大戦で敗れたあと、戦勝国側から、日本語をすべてローマ字表記にせよという動きがありました。日本の学者などの中にもこれに同調する人がいました。が、おそらく良識ある方々が努力されたお陰でしょう、日本語も表記もそのまま残りました。世界中には、征服者によって独自の言語や文字と共に文化までも消滅させられてしまった例も少なくありません。そんなことにならなかった幸せをかみしめながら、シニアにとっての「幸せ湧く話句」を、日本語の季節の言葉の宝庫「歳時記」の中に見つけて行こうと思います。

MOBA・幸せ湧く話句「子供は大人の鏡」

「子は親の鏡」とも言いますが、子供は親や周囲の大人の生き方や考え方を反映する鏡です。だから子供を見て大人のほうが自らを正さなければならないという格言です。最近は少子化の傾向をなんとか食い止めなければと、政府や行政も子供を大切にする方策をいろいろ講じていますが、今年度の「こども白書」によれば、日本の子供で「自国の将来が明るい」と感じている割合が約2割しかいないという調査結果に衝撃を受けたとのこと。自己肯定感も、調査した日本、アメリカ、ドイツ、フランス、スウェーデンの5カ中最下位とか。いやはや日本では子供の大半が「夢も希望もない」と思っていることになりますが、これはまさに「子供は大人の鏡」で、大人の影響によるところが大きく、大人に責任があると言えるのではないでしょうか。◆◆だいたい日本人には、楽観的より悲観的、肯定的より批判的なほうがインテリに見られる、という傾向があるようです。教科書に載っている芥川龍之肖像肖像なんかも、いかにも深刻そうにインテリっぽく撮られています。日曜朝のニュースショー番組で、今はあまり見かけなくなりましたが、長年コメンテーターをつとめていたある教授など、口から出るのはいつも批判や、日本はダメだという悲観論ばかり、10年ほどの間にただの一度も、こうすれば日本はもっと良くなるという前向きな提案を訊いた記憶がありません。また、ほかにも,世の中の一身に一身に背負っているような暗い顔つきと、陰々滅々とした声で、批判や不満を繰り返しているコメンテーターも見かけます。それでギャラをもらえるのですから、日本をそんなに絶望的な国ときめつけることもないと思うのですが。◆◆もちろん批判精神は大事です。しかし、現状を批判するのなら、同時に明るい未来のための提案があってしかるべきでしょう。「日本はダメだ」「将来は暗い」という大人の言葉を、年がら年中耳にしていれば、子供だって「そうかなァ」と思ってしまってとうぜんです。日本の子供の自己肯定感の低さ、国の将来に対する悲観的見方を、嘆いたり心配する前に、大人自身が胸に手を当ててみる必要がありそうです。◆◆大人の子供への影響を話題にしましたが、影響力を持つ人ほど、上に立つ人ほど明るさが要件として求められます。経営者が暗い顔をしていては、会社の業績も上がるはずがありません。いろいろ批判も多かった安倍政権があれだけ長くつづいたのも、安部さんの持ち前の明るさに負うところが大きかったと思われます。さあ新政権はどうなるのでしょうか。しかつめらしい偉人の肖像が多い中で、新しい一万円札の顔になった渋沢栄一さんは珍しく柔和で、笑顔が似合いそうに見えます。やはり明るい気性の持ち主だからこそ、500もの有力な会社を立ち上げることができたのでしょう。渋沢栄一さんの明るさにあやかって、日本もこれからどんどん明るくなり、景気も良くなることを期待したいものです。

MOBA・幸せ湧く話句「一日生きることは一歩進むこと」

「幸せ湧く話句」では、古くからの格金、金言や、偉人たちが口にした名言などは、二番煎じにならぬよう、あまり扱わないことにしているのですが、「一日生きること‥‥」はシニアがポジティブに生きるうえで心に留めておきたい言葉と思えたのであえて取り上げました。この言葉は、実は最近知ったのですが、偉人も偉人、日本人なら知らない人はないくらい有名な湯川秀樹博士が、自分自身の心覚えに書き留めた言葉だそうです。◆◆湯川博士は言うまでもなく日本人として最初にノーベル賞を受賞した天才的な物理学者です。受賞したのは1949年元号にすると昭和24年、太平洋戦争の敗北から4年、日本中がまだうちひしがれていた中での朗報でした。といっても、受賞の前例もなく、理論物理学とか中間子と言ってもチンプンカンプン、ノーベル賞受賞がどれほど価値があることなのかも、みんな知りませんでした。当時まだ小学生だった筆者には、なおさら理解できませんでしたが、とにかく「とんでもなくスゴいことらしいゾ」ということは世間が大騒ぎしているので感じ取れました。世界新記録を連発してアメリカをギャフンと言わせフジヤマのトビウオと称された水泳の古橋選手と並んで、焼け跡だらけでボロボロの当時の日本人にとって、湯川博士は一躍「希望の星」となったのです。今だってノーベル賞受賞はたいへんな偉業には違いありませんが、毎年、日本人の誰かが取れるかなと期待出来るほどになった今日とはくらべものにならないくらいの大事件だったのです。◆◆そんな天才の湯川博士でさえも、自身が理論上予言した中間子の存在が世界の学界に認められるまでには15年もの長い年月を要しました。その間には戦争そして敗戦もありました。毎日毎日、遅々として進まない研究の中で、自分に言い聞かせた言葉が「一日生きることは一歩進むこと」だったのです。「とにかく小さな一歩でも、一日生きた分だけなにかしら進歩があったはずだ」と思うことで、自分自身を納得させることで、また明日を生きようという気分になれる、というふうに捉えていいでしょうか。◆◆これとやや似た「今日より若い日はない」という言葉があります。明日より今日のほうが若いのだから、一日でも若い今日のうちにやっておこう、というわけです。少し前までは、この言葉を励みに一日一日をムダにしないよう心がけました。今でもいい言葉だと思っています。でも、この歳になると、さすがに若い気分でいようとするのが、追い立てられているようでしんどくなります。それとくらべ湯川博士の「(今日)一日生きることは一歩進むこと」は、ほんの小さな一歩でもいい(例えば、新聞に載っていた新しい言葉の意味を一つ知ることだって一歩前進になる)と思えば、なんとなく気がラクにになりませんか。

(写真:写団けやき土田厚実)

MOBA・幸せ湧く話句「AIとも仲良く」

今やAI(人工知能)の話題で持ちきりです。新聞もテレビも、AIを取り上げない日はありません。将来性を見越して、企業も莫大な投資をし、国家ぐるみで支援しているところも少なくありません。先進国の中で日本は力の入れ方で一歩出遅れているとも言われますが、AIは日本人には向いているから何も心配することはないと、ある識者の方が言っておられましたが、私も同意見です。AIの急速な利用拡大と進化に、大きな期待が持たれる一方で、危惧を抱き規制を求める声も強くなっています。AIの危険性を恐れる動きは、どちらかというと日本より西欧諸国のほうが強いようですが、これは宗教観の違いにもよるのではないでしょうか。彼らは、ロボットにしろコンピューターにしろ、人間に近いものほど、出現の際には恐れを抱きがちです。神の御心に反するサタンのように感じるからでしょうか。それにくらべて日本では神様自体が人間っぽく、八百万もおわして、万事に対してとても寛大です。神社とお寺の両方お参りしても誰も咎めません。日本では、幽霊も鬼もどこか憎めない存在ですし、妖怪までもが友だち扱いされます。つまり正か邪かあまり決めつけない融通無碍なところがあり、異質な文化も割と抵抗なく受け入れるのが日本人の特性だと思います。ですからロボットにしても、鉄腕アトムに象徴されるようにすぐ友だち扱い、仲間扱いしてしまうのです。◆◆AIも悪用される危険性ももちろんあり、知ったかぶりしてウソをつくこともありますが、あまり過信をせず、テキトウに肩の力を抜いて付き合えば、シニアにとっても結構面白い仲間になるのではないでしょうか。なんて言えるほど、まだAIとのつきあいも深くなく、理解も十分ではありませんが、二三試した例を挙げてみますので参考になればと思います。◆◆まず心得ておくことは「AIをあんまり過大評価や尊敬しない」「ある程度自分なりの答を持っていることを訊く」ということでしょう。AIのアプリを開くと、まず「何でも訊いてください」という表示が出て、実際に何かについて訊くと、間髪を入れず自信満々の回答が表示されます。そこでついつい万能な物知りに出会ったみたいに錯覚し、へりくだってしまいがちになるのですが、そんなことはありません。実は、このホームページを再開する際に、すでにドメインとして使用してきたMOBAの略称を継承しつつ新たなコンテンツに相応しいタイトルを提案させたのですが、何十という提案の中からコレはというものが見つからず、結局、相談した友人のアイデアをもとに「モアベターエイジング」のタイトルの着想に到ったのです。AIもまだ進化の途上ですから決めつけるわけではありませんが、今のところでは模範解答はしてくれるけれど、飛躍的発想、ヒラメキにやや欠けるような気がします。◆◆やはり、このホームページの参考になればと「人生とは?」という問いかけをあるAIアプリにしてみました。答はできるだけ短くと要望しました。すると1秒も経たないうちに「人生とは、喜びや悲しみ、挑戦や成長、そして繰り返す時間の連続だと思います」と回答してきました。なるほど見事な模範解答には違いありません。でもこれには「人生は旅」あるいは「人生は出会い」という発想はありません。もう少し別の問いかけ(プロンプトというのだそうです)や長い答をリクエストすれば、また違った答が来るかもしれませんが。◆◆もう一つ、「幸せ湧く話句」の参考にと「幸せとは?」と問いかけてみました。答の長さは制限しませんでした。すると答は「幸せとは非常に個人的で主観的な感情であり、人それぞれ異なる形で感じられます。一部の人にとっては家族や友人との良好な関係が幸せの源かもしれませんし、他の人にとっては自己実現や目標達成が重要かもしれません。また日常の小さな喜びや感謝の気持ちを持つことも幸せにつながります。心理学的には、幸せは満足感や喜び、意義を感じることから生まれるとされています。そして、外部の状況だけでなく、自分の内面の考え方や価値観も大きく影響します。総じて言えることは、幸せは異なる形で存在し、それを追求する過程自体が人生の一部であるということです。あなたにとって幸せとは何かを考えてみることも大切ですね」まあこんな具合です。◆◆AIの口調を借りれば、総じて言えることは、AIは万能の神として頭から信じたり頼り切るものではなく、気楽な友だちとして付き合えば、シニアにとっても楽しい話し相手になるかもしれませんね。

《写真:写団けやき土田厚実)

MOBA・幸せ湧く話句「幸福度51番目の国!!」

朝のテレビは、グルメ情報であふれれかえっています。登場するタレントが料理やスイーツを取っ替え引っ替え試食してはさも美味そうに、目ン玉をまん丸にして「ウーン オイシイー!!」を連発しています。他のチャンネルに切り替えると、そこでもまた目ン玉まん丸「ウーン ウマイ!!」の画面が飛び込んできます。どの局も、紹介するグルメやスイーツは違っても、絶品だと推賞する演技はステレオタイプ。朝に限らず、食を扱う番組はやたら目につきます。よくもまあこれほど毎日グルメ情報を流して飽きないものだと呆れるほどですが、それだけ視聴者側も食い物に関心があるということでしょう。その一方で、ダイエットを目的としたジムやサプリの宣伝もさかんです。こうしたテレビの画面を見るにつけ、日本はなんとまあ平和で幸せな国だなあとつくづく感じます。世界中には飢餓状態で苦しむ国はまだまだ多いし、栄養失調の子供は5千万近くに上ると言われます。飢餓まではいかなくとも、日本より貧しい国、戦争や紛争の火種を抱える国、行動の自由が制限される国などは数多く存在します。◆◆国連の発行する「世界幸福度報告書2024年度版」によれば、日本は幸福度ランキングで51番目だそうです。順位は、各国それぞれ無作為で抽出した1000人に質問し、自分の暮らしが最高に幸せだと感じていれば10ポイント、最悪だと感じて居る人は0ポイントとした11段階のポイント数の合計できめるのだそうです。つまり、自分が幸福だと感じている人の割合が多い国ほど順位は上になります。年度によって変動はありますが、日本はいつも50番台のようです。でも、幸福度の感じ方は国民性また人それぞれによって違うのではないでしょうか。日本だと最高に幸せそうな人でも「僕かあ幸せだなァ」なんて口に出そうものなら、「あいつはオメデタイ奴だ」と言われそうでつい控えめになってしまうということもありえます。ある順位の国の人をもっと順位の高い国に連れて行って暮らさせたら、果たしてより幸せと感じるでしょうか。◆◆ランキングの上位には北欧諸国が目立ちます。確かに社会福祉や所得水準は高いかも知れません。でも、午後二時を過ぎれば夕闇がただよう暗く長い冬の暮らしに、少々貧しくともさんさんと太陽が輝く国の人が住んだとしたら幸せと感じるでしょうか。1位、2位のフィンランド、デンマークはともかくとして、3位は全人口僅か30万人足らずの絶海の火山島アイスランド。その暮らしに、お祭りやらイベントやらでなにかというと大勢で騒ぐのが好きな日本人の多くが馴染めるでしょうか。そして4位がスウェーデン、6位がオランダと、このへんはまあこんなものかなといったところですが、オランダより上の5位にランクされているのが、なんとイスラエルなのです。意識調査した時期はまだガザの紛争が激化する前だったのかも知れません。それに、ある特定の国の人々の幸福感を口出しするのは失礼だとは承知しています。それにしても、いつ戦乱に巻き込まれるかわからない不安定な地理的条件、政情の中にあっても、多くの人々が他国より幸せだと感じていることは驚きの一語に尽きます。◆◆以前テレビで、アフリカのある部族の大家族を取り上げたことがありました。まだ一夫多妻の風習が残るその家族は、1人の男性の家長、3人の妻と20人近くの子供からなる大家族です。暮らしは我々のものさしで測ればけっして裕福ではないでしょう。同じ屋根の下で、3人の母親とそれぞれの子供たちと一緒の生活なんて想像のほかです。でも、その母親の一人である女性は「私はこんなに大勢の家族と楽しく毎日暮らせてとっても幸せだ」と、輝くような笑顔を見せていました。ことほどさように幸福の感じ方は、人それぞれや、民族性、生きてきた環境や、歴史、宗教上の価値観などさまざまな要素によって大きく変わるものだと思います。51番目だからといって、ガッカリすることもないし、自国をことさら卑下する必要もないでしょう。   (写真 オランダ アムステルダムの運河)