MOBA・幸せ湧く話句「幸せのものさし」

30年も続いている朝のラジ長寿長寿番組のパーソナリティー森本毅郎さんと私は同い年で学齢も同じ、戦後最初の年に小学校へ入学した世代です。と言っても、直接面識があるわけではないのですが、私の近くにいた友人が彼と大学時代ハワイアンバンド仲間だったことから、彼の話はよく聞かされたものでした。それと、毅郎さんの長兄で文明評論家の森本哲郎氏の著作の愛読者で、「への旅」シリーズをはじめとする哲郎氏の著作のほとんどが書棚に並んでいるので、なにか身近な存在に思えるようになったのかもしれません。ちなみに「への旅」とは、著作のタイトルが「ゆたかさへの旅」「あしたへの旅」「ことばへの旅」というふうに「への旅」がついていることからこんなふうに呼ばれているというわけです。さて、本題の「幸せのものさし」ですが、これは森本毅郎さんの著作で彼が雑誌やカード誌などに寄稿した短文を集めたエッセイ集ですが、兄の哲朗氏にひけをとらない、なかなかの文章力で、しかも毅郎さんの人柄と優しいまなざしを感じさせる読んで心地よい作品です。表題の「幸せのものさし」は収載されているエッセイの一つからとったものですが、筆者がNHK時代同僚だった女性ディレクターと偶然出会ってお互いの近況を語り合ったときのことが記されています。彼女は最近離婚したとのことだが、旧姓に戻るのが厄介だった(今も夫婦同姓・別姓論議が続いているが)ほかは、周囲が思うほど不幸とは感じてないから、世間一般の「ものさし」で見ないで欲しいと,サバサバと、魅力的な笑顔で語ったという。結局のところ、自分の幸せは「自分のものさし」で測ればいい、そのことが、魅力ある自分、充実した自分を作り出すことにつながるのだろう、と毅郎さんは結論づけています。このエッセイ集を出版したとき、毅郎さんはまだ40代半ば。とうぜんながら私も同じ年齢でした。それから倍近くの年月を生き、その間多くの環境の変化もあったことでしょう。そうした変化を乗り越えて、今なお魅力的な語り口でパーソナリティーをつとめていられるのは、ひととは違う「自分のものさし」を持ち続けてきたからでしょうか。◆◆ふたたび「幸せのものさし」に出会ったのは、シンガーソングライターの竹内まりやの歌でした。その歌詞の中にも「幸せの基準をはかるものさし、自分の中にあるのさ。足りないものを数えるくらいなら、足りてるものを数えてごらんよ」という一節があります。また、どこかで出会った川柳に「幸せの目盛りを下げて云々」というのがありました。でも、幸せの目盛りを下げるのと「自分のものさし」幸せを測るのとでは大きな違いがあります。目盛りを下げて妥協する、または諦めるよりも、自分なりの「幸せのものさし」を持つことのほうが、より多様で魅力的な生き方、モアベターエイジングにつながるのではないでしょうか。

(写真 写団けやき 土田厚実)

MOBA・幸せ湧く話句「免許証返納のススメ」

運転免許証は、かなり早く返納したほうだと思います。若い時分に自動車関係の仕事に関わっていたこともあって、クルマというものが完全なものではないということを身にしみて感じているからかもしれません。性能も安全性も昔とくらべれば、格段に進歩していますが、どんなに努力しても事故を起こさないクルマなんて作りようがないからです。デフェンシブドライブという言葉があります。防御運転と訳されていますが、時分だけがいくら安全運転を心がけていようと、相手がぶつかってきて事故になることも多い。相手のミスにも臨機応変に対処出来るような運転をしようということですが、これにも限度があります。AIなどの活用で完全に自動化された安全なクルマが実用化されるまでは、安全な運転などないとおもったほうがいいでしょう。今の時代、運転ができなくなるとなにかと不便には違いありません。しかし、返納の体験者として、返納した不便感より「ホッと」した気分のほうがずっと強かったのが実感です。これで、ようやく死ぬまで事故の加害者にならないで済んだという安堵感です。日常的に運転していた間はそれほど感じなかったのが、返納したとたん何度かヒヤッとした経験が甦り怖ろしくなります。中でも一番記憶に残っている一件があります。若いころ、会社の業務用のかなり古いクルマが邪魔な場所に駐めててあったのを、たまたま手の空いていた私がおせっかいに移動させようとしたときのことです。移動先まではほんの近距離でしたが、いったん公道に出る必要がありました。横断歩道を何人か渡っていました。横断歩道の手前で、かなり余裕をもってブレーキを踏んだつもりでした。が、ブレーキが効かないのです! 横断している人たちに向かってクルマは走行し続けます。全身が硬直し、からだが動きません。ブレーキから足が離れません。サイドブレーキのほうにも手が動きません。人を轢いてしまう!と一瞬観念しました。でも、僅かながら理性的判断力が残っていたのでしょう。なんとかブレーキペダルからいったん足を離し、ダブルクラッチ(当時はオートマチックではありませんでした)を踏んで再度ブレーキペダルを踏むと、スッと止まったではありませんか! 助かったと思ったとたん冷や汗がどっと吹き出しました。思い出すと今でもぞっとします。それでも若かったからこそ何とか反応できたのであって、高齢者だったらそうはいきません。◆◆免許証を返納しない男性の多くは自分の運転テクニックに自信があり、女性の多くは自分は慎重に運転しているからと、いずれも年齢を重ねてもまだまだ大丈夫と過信しがちです。慣れてしまっているクルマのある暮らしから抜け出すには強い抵抗感があります。でも、実際に私の姉が日ごろつきあっていた友人で二人の人をはねてしまった事例があり、とても自分とは無縁の出来事とは思えません。大きく報じられた池袋の高齢運転者による母子の死亡事故では、かつて地位もあった90歳過ぎの高齢男性が、実刑の判決を受け、刑務所入りしています。被害者とその家族ももちろんお気の毒ですが、加害者も過去の栄光を全て失い、まさに地獄の晩節です。地獄の日々を送るくらいなら、クルマのない生活の不便さなどは問題になりません。ネット通販やネットバンキングで大方用が足りる今日、よほどの辺境でもない限り、免許返納を拒む理由にはなりません。クルマの購入費、維持費、ガソリン代など全部吐き出すつもりで工夫し、セーフティネットも活用し、場合によってはひとに頭を下げて頼めば、なんとかなるはず。できないのは怠慢にほかなりません。歳取ってから地獄を見ることのないよう、免許証のできる限り早く返納して幸せな晩節を送りたいものです。

MOBA・幸せ湧く話句「遅すぎることはない」

先年105歳で亡くなった聖路加国際病院の日野原重明名誉院長は、生涯現役の医師としても活動し、文化勲章を授与された偉い先生ですが、殊に「命」の大切さを説いた数多くの著作や講演を行ったことで知られています。それは、あのヨド号ハイジャック事件の際、たまたま乗り合わせた飛行機で人質となり、死を覚悟した経験につながるのかも知れません。日野原語録ともいうべき言葉は膨大な数で、挙げればキリがないほどですが、その中で強く触発されたのは「人間いくつになっても、新しいことに取り組める。それは自分がそれまでやって来たこととかけ離れたものであればあるほど愉しい」という言葉です。あまり正確な記憶ではありませんが、こんな趣旨だったと思います。特に後半の部分は、マトモと見られている人がマトモなことをやるより「まあ、あの人が!」とひとから驚かれるような、意外な自分の側面を見せることのほうが自分自身も愉しい、という意味と理解して共感を覚えたものでした。シニアの強みは、なんと言っても若い時と比べ、金銭上はともかく「時間」的に富裕だということでしょう。だったら、その時間を有効に使って、時間貧乏のときにはやりたかったけれどやれなかったことにトライするのが面白い。イイ歳をして、と言われようと知ったことではない。そう開き直ると、やれそうな領域が広げられる気がします。実際、日野原先生ご自身も、88歳にして、ミュージカル「葉っぱのフレディ」の脚本を手掛け、自らも舞台に立ち、98歳のとき俳句を始めたと聞いています。別に難しく考えなくていい。絵だって楽器の演奏だって、俳句だって短歌だっていい、料理(奥さんの領域を侵さない範囲で)でもいいじゃないですか。私自身、日野原先生の言葉に触発されて、いろいろくびを突っ込みましたが、モノにならなかったもののほうが多いでしょう。でも、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるで、なんとか実現できたものもあります。その一つが落語。聞くのは好きでしたが、話す方は全然苦手なので、台本を書いて、アマチュア落語の爆笑王(プロの爆笑王は初代の林家三平)と呼ばれる人に公共の場で演じてもらい、幸い笑取る取ることができましたが、これも日野原先生の言葉のお陰と思っています。

(写真:写団けやき 土田厚実)

MOBA・幸せ湧く話句「毎日が発見」

シニア向けの情報誌が今年定期刊行を終了しました。オンラインでの情報発信は続けるようですが、事実上の廃刊です。そのシニア誌の名は「毎日が発見」。書店売りでなく、宅配方式を採っていたので、ご存知ない方も多いでしょうが、不況と言われて久しい出版業界にあって二十年以上刊行したのですから、よく続いた方だと言えるかも知れません。でも、私としてはやはり残念に思えてしかたありません。ここ一二年は、同じシニア向けのライバル誌「ハルメク」(元の題名は「いきいき」)にかなり押され気味で、だいじょうぶかなあとハラハラしていた矢先の終刊でした。なんで部外者の私が気を揉むのかと思われるでしょうが、実は、この雑誌の創刊時のプロデュースを請負ったのが私で、「毎日が発見」という題名の言わば「名付け親」でもあるからです。(下掲の写真はデモ用の創刊0号と企画書)。もっとも、発行元はその後変わり、編集者や編集方針も何度か変わりました。でも「毎日が発見」のタイトルは継続されました。私はここで思い出話や自慢話をするつもりはありません。けれど、この雑誌の創刊の「心」と「毎日が発見」の題名に込めた思いは雑誌が終刊しても何らかの形で遺し、伝えておければと思ったからです。◆◆創刊企画当時、同様のシニア向けの雑誌としては「悠々」(既に廃刊)と「いきいき」(後にハルメクに改題)の二誌が先行していました。後発誌として、他誌とは異なる切り口(コンセプト)とそれに相応しいタイトルを、と考えた末たどり着いたのが「毎日が発見」でした。シニアライフを「悠々」自適に生きるのも、「いきいき」過ごすのももちろんいいことにはちがいありません。でも、シニアだって好奇心を持ちつづけ、日々何か新しいことを追い求めるモアベターな生き方があるのではないか‥‥これが「毎日が発見」の原点でした。◆◆その気にさえなれば、私たちの周りには、新しい発見のネタがいくらでも転がっています。手っ取り早いものでは毎日配達される新聞。朝刊一部の文字数は、週刊誌一冊分より多いそうです。その中には自分がそれまで知らなかった言葉や知識がいっぱい潜んでいます。それらは、何も新しい用語や情報とは限りません。文化欄、短歌俳句などの文芸欄、あるいは超難関クロスワードなどから、こんなに長く生きてきながら知らなかった言い回し、熟語、ことわざなどがまだまだたくさんあったのだなあと、改めて気づかされます。◆◆そうはいっても、新しい発見をしたところで何になるの、という疑問が生まれるかも知れません。若い時のように仕事に生かせるわけでもありません。災害の報道記事があっても、被災地に駆けつけボランティア活動することも出来ません。自分の気休めに僅かな義援金ヲ出すくらいがせいぜいです。なんのために生きているのかと無力さを感じることもあります。そんなとき、ある言葉を思い浮かべると勇気づけられ、気がラクになります。それは先年亡くなった文明評論家の森本哲郎さんの著作の中で見つけた次の言葉です。「人生の目的生きる意味といってもいいでしょう)は自分の世界を少しでも広く、少しでも深く構築することである」です。そうか、そう考えればいいんだ! そういうことだったら、年を取って少々からだの動きが鈍くなってからでもも出来そうな気がしませんか? 日々出会う新しい知識やことばを自分の中に取り込む「毎日が発見」という意志と行為そのものが「生きる意味」につながるからです。

MOBA・幸せ湧く話句「未来との遭遇」

今では大人がマンガを読むのがあたりまえですが、昭和の二十年代頃までは子供でも、親から「マンガばかり読んで」と言われそうでコッソリ読んだものでした。当時マンガはレベルが低いものというイメージが一般的でしたが、それを一変させたのが手塚治虫の登場だったのではないでしょうか。子供たちの未来への夢をかきたてるストーリー、それと、なんといってもそれまでのマンガにない精緻で美しい表現が子供心にも印象的でした。中でも衝撃を受けたのは代表作の鉄腕アトムではなく、少年誌の綴じ込み付録の読み切り短編作品でした。未来の東京と覚しき都会の摩天楼の屋根裏部屋にひっそりと、ハツカネズミと暮らす孤児の少年の物語(あとで調べたら「摩天楼小僧」という題名でした。)ワクワクしたのは孤児の少年がふとしたことで悪の組織の秘密を握り大活躍するストーリーよりも、高層ビルの上から見下ろす街路の描写、また街路から見上げる高層ビルの光景といった、当時の東京ではどんなアングルを採ろうとも絶対に見られない未来都市の姿でした。現実の戦後間もない東京はまだ焼け跡だらけ、焼け残ったビルも、銀座の象徴・服部時計店(今の和光)、松屋百貨店、伊東屋などめぼしいものは占領軍の米兵とその家族用のPX(スーパーみたいな売店)となり、日本人はオフリミット、戦後は終わったと言われるようになった昭和三十年代でも、東京の町の風景はみすぼらしいものでした。盛大に行われた当時の皇太子(現、上皇様)ご成婚パレードの写真や映像を見ても、当時の東京がこんなに貧弱な町並みだったかと、あらためて驚かされます。それでも東京は憧れの大都会。藤山一郎のヒット曲には「愉し都、恋の都、夢のパラダイスよ花の東京」とまで歌われていたのでした。◆◆いま住んでいる「武蔵浦和」という街は、同じ武蔵がつく「武蔵小杉」ほどには知られていませんが、同じようにタワーマンションが林立し、それらの住民を対象とした商業施設であふれています。少し前までは「ダサいたま」と馬鹿にされた地域がいつの間にか変貌してしまったのです。超高層ビルの谷間の街路から見上げる光景、ビルの高層階から見下ろす街路の光景は、正に子供の頃に衝撃を受けた手塚治虫の「摩天楼小僧」に描かれた未来都市そのもの。埼玉の一都市でさえそうなのですから東京やその他の大都市の景観はかつては想像もつかない変りようです。そう思うと、いつもはあたりまえのように見ている光景も、長く生きて来たからこそ遭遇できたとつくづく幸せを感じるのです。(写真:さいたま武蔵浦和)

MOBA・幸せ湧く話句「スーパードリーム」

近ごろ特に「生きてるだけで丸儲け」とつくづく感じることががあります。ここまで生きて来なければ決して目にすることは出来なかったシーンを目の当たりに出来る。それが大谷選手のメジャーリーグでの大活躍です。これほど連日、日本中を明るくしている人はないのですから、すでに国民栄誉賞の二つや三つでは足りないくらいです。今や日本中のみながこぞって彼の活躍から感動をもらっています。とはいえ同じ感動でも、シニア世代それも戦後間もない時期に子供時代を過ごしたわれわれの年代層の者が感じる感動と、その後の世代のとではまるで異質だと思われます。多くの世代は、既に、野茂、イチローをはじめ多くの日本人選手のメジャーリーグでの活躍を目にしています。大谷ほどではないにしても、日本選手がメジャーリーグで活躍するのは珍しいことではなくなっています。しかしわれわれが子供の頃は、そんなことは夢のまた夢でした。◆◆敗戦後間もない頃の子供たちにとっては、なんといっても野球が一番人気の遊びでした、学校も今のような少人数学級なんてものではなく、1学級60名、男子だけでも30名というのがザラでしたから、試合をするには人数に事欠きません。どこの広場でも野球、野球、もっと狭い場所でも板きれをバット代わりにテニスボールを打つゴロ野球、という光景が見られたものでした。サッカーなんて誰もやりません。そんな子供たちにとって、日本を占領統治していたアメリカ総司令部の奨励もあって、いち早く復活したプロ野球の人気も絶大、ホームラン王大下の青バット、打撃王川上の赤バットなど、憧れのプロ野球選手の活躍(といってもラジオ放送しかありませんでしたが)に胸躍らせたものでした。◆◆その頃、戦勝国アメリカから親善試合にサンフランシスコ・シールズというチームがやって来ました。メジャーリーグより格下の3Aでしたが、それでもまず体格の違いに圧倒されました。結果は,巨人軍や東西選抜、全日本選抜が束にかかっても歯が立たず、全敗でした。メジャーでの登板経験があるピッチャーというだけで、川上哲治、青田昇、千葉茂、西沢道夫、小鶴誠といった日本の名だたる選手がすくみ上がったように手も足も出ないありさまでした。でも、日本中が大人も子供も日米野球で沸き返りました。ラジオの実況は良く覚えていませんが、めったに買わない「野球少年」に載ったNHKの名アナウンサー志村正順の「誌上実況放送」をワクワクしながら繰り返し呼んだ記憶が妙に鮮明に残っています。そんな時代ですから、日本人がメジャーリーグでプレーすることさえ想像もつきませんでした。まして、投打の二刀流での活躍だけでなくホームランでも盗塁でも、外国人選手の記録を次々に破っていくのですから、当時そんなことをマンガに描いたとしてもあり得ないとバカにされたはずです。その頃を知るわれわれシニア世代にとっては、今目の前で起きていることが夢のようと言うより、夢を遙かに超えたまさに「スーパードリーム」なのです。大谷選手の大活躍を見られるのも「生きてただけで丸儲け」にほかなりません。

(写真:写団けやき 土田厚実)

MOBA・幸せ湧く話句「生きてるだけで丸儲け」

いつ頃どこで聞いたのかもはっきり覚えていませんが、明石家さんまさんが言ったのは確かです。さんまさんの熱心なファンでもないし、さんまさんの番組をよく見るほうとも言えませんが、この言葉だけはなぜか心に残っています。もしかしてさんまさんもどこかで聞いた言葉なのかもしれませんが、彼自身この言葉に感じるところがあったからこそ、ひとにも語ったのでしょう。誰だって、いったいこんなことをしていていいのだろうかと、落ち込むことがあります。そんなとき「生きてるだけで丸儲け」とつぶやくと、何かしら気がラクになります。思うようにコトが進まなくても、そうだ、今生きていること自体大きなトクをしてるのだと開き直れば、くよくよ、せかせかすることもないのですから。神様が人間に与えたパンドラの箱を誤って開けてしまったために全てが失われたが、慌てて閉めたので、残ったのは「希望」だったというギリシア神話を,なんの脈絡もないのに「生きてるだけで丸儲け」の言葉から感じるのです。◆◆それにしても、いつも感心するのは、明石家さんまさんにしても他のたくさんのお笑い芸人さんにしても、よくぞまあたいへんな職業を選んだものだなあ、ということです。ほかの商売なら、努力そのものを認めてくれる場合があります。が、お笑い芸人さんの場合は、笑いを取ることがすべてです。年がら年中、来る日も来る日もお客さんを笑わせなければなりません。そのためには、芸人さん自身もいつも楽しそうに笑っていなければならないのです。芸人さんにだって普段の暮らしがあり、心配ごとだってあるでしょう。でも、そんなところはおくびにも出さないで、大口を開け歯をむき出して大笑いした顔を見せ続けなければならないなんて、とうてい一般人には真似できません。そんなしんどい毎日を送っている方の口から出たことばだけに「生きてるだけで丸儲け」はなおさら心に響きます。いつでも幸せそうな笑顔を振りまいていなくても生きていられるだけでも、わたしたちは大儲けしていると言えるのではないでしょうか。

(写真:写団けやき 土田厚実)

MOBA・幸せ湧く話句「ありがとう」

「幸福学」という学問があるそうです。この研究の第一人者として知られているのが慶應義塾大学大学院の教授で武蔵野大学でも学部長をつとめておられる前野隆司先生ですが、先生によると「幸せの4因子」というのがあって、その4因子とは「ありがとう」「やってみよう」「なんとかなる」「あなたらしく(または、ありのまま)」なんだそうです。これを聞いて、思わずウーンと唸ってしまいました。さすがですね、難しい「幸せ」のキーワードをたった4語でズバリ言い当てるなんて!! こんな良いことを聞いたときは、善は急げ、頭にたたきこんで誦んじるのが一番と、さっそく実践しようとしました。が、ほんの4語だというのにどうもスラスラと出てきません。恥ずかしながら、丸暗記はマルで苦手です。しかたなく、語呂合せのようなものをいろいろヒネってみました。暗記が得意な右脳型人人から見たらバカみたいな話でしょう。それでも無理矢理、「あなたらしく」の「あな」、「ありがとう」の「あり」、「ってみよう」の「や」、「んとかなる」の「な」を、関西ふうに訛って「穴・あり・や・な」ととなえ、「穴」は「突破口」に充てるとなんとなく幸せのオマジナイらしくなりました。何かに行き詰まったときなど、「幸せの4因子」を思い浮かべることで、幸せな気分になれそうな気がします。◆◆でも、4因子の中からさらに一つを選ぶとしたら?と問われれば私なら迷わず「ありがとう」を選ぶでしょう。私たちは何かにつけて他人に対しては気軽にこの言葉を口にします。ところがかえって身近な人に対してほど言いそびれがちなのが「ありがとう」ではないでしょうか。この頃よく、スポーツ選手が表彰台に上ったときなど、親兄弟や周囲のサポートしてくれた人への感謝を口にします。それによって、きっと入賞の喜びは何倍にも増したはずです。われわれ凡人にしても、過去にいろいろあったとしても、ともあれ、今こうしていられるのも、周囲の支えのお陰に違いありません。躊躇なく「ありがとう」を口に出すようにしたいものです。私自身も、いい年寄りと思われたくて、できるだけ「ありがとう」と言うようにしていますが、なかなか身内には照れくさくて言えません。特に、息子には、男同士の意地といおうか面と向かって言えません。それでも、最近は、暑い時期に代わりに墓参りして貰ったときとか些細なことでも「ありがとう」と口にしたりメールするように心がけています。「ありがとう」は口に出したとたん、なにかスッと気持ちが軽くなる不思議な言葉です。

(写真:写団けやき 土田厚実)

MOBA・幸せ湧く話句「しあわせわくわく」

「モアベターエイジング」をテーマに、いささかでも役に立つと思われるあれこれを取り上げて来ましたが、このへんで、あらためて「モアベターエイジングとは」の問いに向き会ってみたいと思います。「モアベターエイジング」は「より幸せなシニアライフ」と言い換えることもできます。でも、今度は「幸せって何?」という難問の壁にすぐ突き当たります。

そもそも「幸せ」ってなんでしょう。古今東西誰もが追い求めてきたものの、なかなか掴めないのが「幸せ」です。でも、こう考えたらどうでしょう。ーーー「幸せそのもの」をつかまえるのは難しいけれど、「ワクワクするような幸せな気分になる話(話題)や句(ことば)を見つける」のなら出来そうな気がするのではーーーと。そんな話題やことばを「幸せ湧く話句」と呼ぶことにしましょう。◆◆われわれシニア世代は、長く生きて来たぶんだけ多くの「幸せ湧く話句」にに出会い,勇気づけられ励まされてきたはずです。だからこそ今のあなたや私があると言ってもいいでしょう。でもそんな「幸せ湧く話句」の多くは、つい気づかずに聞き過ごしたり見過ごしてしまったり忘れてしまいがちです。それではもったいない。ここではそんな「幸せ湧く話句」を掘り起こし拾い集め、モアベターな「幸せを感じるシニアライフ」のためのポジティブ思考のコーナーにしたいと思います。よろしければご一緒に「幸せ湧く話句」探しの旅に出掛けませんか。(写真:写団けやき 土田厚実)

MOBA・隠居探偵「本能寺の真相、光秀の深層」

日本の戦国時代、タブーとされた「豊臣秀頼はほんとうは誰の子?」の疑問の解明を試みましたが、今回は同じく戦国時代の謎とされる「本能寺の変」を取り上げてみました。天下統一寸前だった織田信長が明智光秀の謀反によって自刃するという前代未聞の大事件は、あの才知に長けた光秀ともあろう男がなんであんな無謀な挙に出てたのかという「動機」が謎とされ、諸説紛々。枚挙にいとまないほどですが、ここではやや視点を変え、今日の社会とも重ね合わせて光秀の心の深層に分け入ることで事件の真相に迫ってみたいと思います。人間の心理は時代が違ってもあまり変わらないと思うからです。◆◆今や転職や中途入社はごくあたりまえですが、団塊の世代よりほんの少前前頃までは、転職には相当な勇気と覚悟が要りました。今でも転職の成功率は,転職斡旋業者のコマーシャルほどには高いと思えませんが、明智光秀の場合、零細企業から急激にのし上がったワンマン社長の会社に飛びこんだようなもの。まして、手のつけられないやんちゃなガキ大将だった跡取り息子と、言われるままに追従する元悪ガキの家来とがそのまま社長と社員になり、あとは古参の大番頭の勝家や、いくら叱られても平気でおもねることができる秀吉と言った面々ばかり。そんな中にインテリの光秀が身を置くのがいかにたいへんか容易に想像できます。◆◆社長の信長は「あやつにやらせておけば何とかなる」と重宝がるのはいいが、次から次にやっかいな仕事を与える。最前線での陣頭指揮はもちろんのこと、京都の行政、公家や朝廷の面倒見、はては馬揃えといったイベントの企画進行、さらには賓客の接遇まで、とてもたたき上げの連中には手に負えないお役目ばかり。しかもなまじ光秀がデキる男なので、なんとかこなしてしまう。周りは難仕事を抱えさせられているとは見てくれません。信長も光秀の苦労に見合う評価をしてくれているとは思えません。当時日本に来ていた宣教師のフロイスは光秀を信長同様、残酷で野心家と評しているが、表面的にはそう見えても、幹部社員と中途中途採用された身では、本心とは全く反する身震いするほどイヤなことでもイヤとは言えない立場です。比叡山の焼き討や越前一向一揆勢の虐殺など、光秀にとってはまさに「堪え難きを堪え」だったでことでしょう。◆◆光秀の実像は、側室も持たず、疱瘡にかかった妻と終生共にし、統治した丹波では善政を施し領民に後々まで慕われたことからも、ごくマトモな人物と思われます。ただ、内にに秘めたプライドは高かったのでは。それは、明智光秀という名前に隠されている考えられないでしょうか。当時、名前の付け方は相当イイカゲンなものでした。羽柴とか豊臣と勝手に名乗った秀吉を例に取るまでもなく、誰でもテキトウに源氏や平家の流れと称するし、あの家康だって、将軍になるために最初は平家の末流と言っていたのがいつの間にか源氏の嫡流と称し、松平信康から自分で徳川家康に改名してしまっています。光秀にしても土岐氏の支流という説もありますが、むしろこの名前は光秀自身がつけたとも十分考えられます。というのは、明智とは老子にある「人を知る者は智なり、自らを知る者は明なり」を出典としていていかにも学識のある光秀らしく、それに光輝の「光」と優秀の「秀」の文字とで構成されています。だれだって良い名前をつけたいと思うでしょうが、全てこれほど極上の文字に揃えた例は見ません。ただ残念なことには、謀反人の名という悪いイメージが重なってしまって、素晴らしい名前だとは誰も感じないでしょう。この名前からも「自分はこんなところに納まっている人間ではない」という自負心が伺えます。◆◆信長は人に仕えたことがありませんから、下の者の心情や痛みを理解することなどできようはずがありません。光秀だってそれは十分承知で「ああいう気性の上司を選んだのは自分自身なのだから」「それなりに目を掛けられ城持ちにまでしてくれたのだから良しとしなければ」と幾度となく自分に言い聞かせてきたに違いありません。途中でハシゴを外されるても「ワンマン社長ならよくあること」と割り切ろうと思ったことでしょう。でも何事にも限界があります。ついにブチ切れる瞬間が光秀に訪れました。それは、宿願の武田氏を滅亡させほぼ天下布武に近づいた「関東討ち果たし」から帰還した際の祝宴での信長の一言と仕打ちでした。「これでようやく天下も治まり、我々のこれまでの苦労も報われたというものです」とふと口にした光秀の言葉に、信長が「貴様が今まで何をやってきたというのか」と狂ったように激怒し、何度となく打擲したことです。光秀にしてみれば、「これまで自分の手柄もみな信長のものとしてひたすら耐えに耐えてきたこの十六年間はいったいなんだったのか」という、血が引くような思いが一気にこみあげたことでしょう。この瞬間が「臨界点」だったのです。天正十年五月、決起の一ヶ月前のことでした。◆◆そして、日を待たずして、信長配下の諸将が各地に散り、信長の身の周りが空白となる事態が偶然にも訪れたのです。光秀の行動が無謀だとか、せめて細川忠興など親しい向きへの根回しをしておくべきだったなどと後から指摘するのはたやすいことです。でも、もし事前に誰かと相談したら、きっとだれもが押しとどめるのはわかりきっていますし漏洩の危険性があります。逃したら逃したら二度とこのような機会が訪れないでしょう。光秀にもはや思いとどまるという選択肢はなかったのです。光秀の行動には、足利義昭や朝廷公家など黒幕の力が働いていたという説もあります。そのほか、家康饗応の際の失態説、天下取りの野望説、長宗我部元親との信義を無視して信長が四国攻めに踏みきったからという説、光秀が統治していた丹波、丹後を召し上げ出雲、石見を切取りしだいにせよという信長の命への反発説などさまざまですが、真の動機はほかでもない、知将光秀にして、理性を超えたやむにやまれぬ心情そのものに求める以外ないのでは、と思うのです。